榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』

選書日本中世史 4 僧侶と海商たちの東シナ海 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 4 僧侶と海商たちの東シナ海 (講談社選書メチエ)

 東シナ海を往来した僧侶たちが残した史料、手紙や旅行記、伝記などを利用して、9世紀から14世紀にかけて、東シナ海でどのような交流が行われたのかを具体的に明らかにしようとした著作。9世紀、新羅の飢饉による難民の発生が、唐・新羅間の海商の活動を生み出す。彼らが開拓した明州(現在の寧波)と五島列島を直接渡るルートは、その後、日本列島と中国大陸の交通の幹線となる。交通をつかさどる海商の担い手はその後変遷していくが、14世紀に明が海禁政策を行うまで、彼らによる比較的自由な交通の時代が続く。本書はその時代を扱っている。聞き慣れない僧侶の名前が大量に出てきて混乱するところもあるが、これはおもしろい。索引が付いているので、わけが分からなくなっても、前をチェックすることもできるし。
 本書は各種の記録に残る僧侶の行動から、日中の人間の交流を明らかにしている。本書を見ると、想像以上に濃密な交流が行われているのがわかる。8世紀までの遣唐使の時代には、20年に一回程度の頻度の遣唐使船を利用するしか、行き来する方法がなく、唐への留学はかなりのリスクが伴うものであった。
 それが9世紀にはいると、海商による定期的な往復が開始され、行き帰りは頻繁にできるようになる。有名な円仁は新羅の海商の支援をうけて唐で活動し、帰国も新羅船を使うなど、この動向の嚆矢となっている。以後、12世紀まで、国家管理のもとで、国家や有力者の後援を受けた僧侶が留学し、日本国内の仏教界で活躍する。ただし、この時代は、貿易船は国の接遇をうける形だったので、10世紀にはいると財政難から外交関係の経費が減らされることになり、交流の頻度は減少する。
 12世紀にはいると、大宰府の外交管理がなくなり、国の代表としての身分はなくなり、日本・宋双方から生活費などの支援をうけることはなくなる。しかし、逆に自由な身分での留学が可能になり、入宋僧の数は激増する。彼らは、一般の僧侶として、宋の仏教教団で修行・生活を行い、結果として宋の文化の影響を濃厚に受けた宋風教団が日本国内の仏教界で盛行する。また、南宋と日本の濃い人脈が形成される。この交流は、海商たちにプロデュースされ、彼らの信仰の対象が日本に宣伝紹介された。また、日中の教団の交流を担うことで、寺院の造営などのプロジェクトに参入することができるようになった。
 この状況は、南宋の元への接収後も、それほど変わらないで続く。元の日本への侵攻など、軍事的緊張状態が続いた結果、鎌倉幕府側が軍事的緊張にともなって出港を差し止めたり、元側の日本への警戒が高まった結果、交通が止められたり。日本人僧侶が拘束され、大都に連行されるなど、状況は不安定化する。本書で紹介される入元僧龍山徳見の一生は、両国関係に翻弄される状況を示している。
 元末、江南の治安の悪化、明の建国と海禁政策は、状況を全く変える。ごく初期には入明僧が存在したが、日明間の外交関係如何によって、四川に配流されるといったことになっている。遣明使に従っての短期の明への入国、交流は続くが、前代の濃密な影響関係はなくなり、ここに一つの時代が終わる。
 宋元時代の想像以上に濃密な関係が興味深い。ただ、東シナ海世界を対象とするなら朝鮮半島も考慮する必要があるのではないだろうか。中朝の仏教界の交流、中国での日本僧と高麗僧の邂逅などはあったのだろうか。あと、ものすごく明の時代が暗黒時代にみえるな…


 以下、メモ:

 なぜ画期と言えるのか。結論を言えば、海商の出現とそれによる歴史世界としての海域の誕生が見られたためである。海商、すなわち海上貿易をなりわいとする商人たちは、通時的に存在したように思われるかもしれない。実際にインド洋や南シナ海などでは、かなり古い史料にも海商の存在が記されている。しかし東シナ海に関する限り、東シナ海沿岸で漁業やローカルな商取引を行う人々はともかく、東シナ海を渡って広域的に貿易活動を行う商人は、なかなか出てこない。その理由は、先に述べた陸が見えない海という条件の悪さが大きいのだろう。たとえばインドから中国に来ることは、距離だけを見れば大航海に思えるかもしれないが、時間さえかければ陸地を見ながら沿岸伝いに来航することが可能なのであり、ところどころに航海の難所があったとしても、東シナ海ほど困難な海ではない。p.13

 ずいぶん古い時代から、インド洋ではモンスーンを利用した遠洋航海が行われていたわけで。なんで、東シナ海でそれが出来なかったのかは疑問ではある。遣唐使船に見られるように、技術的には可能なことは分かっていたわけだし。制度的な問題も考慮する必要がありそうな。

 ところがこうした記録は、通時的には存在しない。日本の場合、十二世紀後半になると中央で海商の待遇に関する議論が行われなくなったようで、貴族たちの記録には現れなくなる。関連の有無は不明だが、同時期に高麗でも、海商の来航記録が見られなくなる。この時代でも海商が日本・高麗に継続的に来航していたことは、中国側史料でも明らかであり、むしろ日本では十三世紀以後、中国製陶磁器が全国各地に流通するようになる。つまり海商の往来は相変わらず続いていたが、これが中央で公的に把握されなくなってしまうらしい。この状態は以後十四世紀まで続く。p.23

 貿易の国家管理から自由化へ。

 入唐僧は原則的に遣唐使と同様に、帰国の後にはその成果を天皇に報告する義務を負った。少し後の例になるが、十国の一つ浙江の呉越国に渡った日延の例を見よう(『大宰府神社文書』年欠大宰府政所牒)。呉越王銭弘俶は、唐末の混乱で国内に仏典が欠けているとを嘆き、高麗・日本に書写を求めた。これに応じた天台座主延昌は、953年に書写した仏典を延暦寺僧日延に託して送らせた。三道博士(天文道・陰陽道・暦道の博士)の賀茂保憲は、この機会に最新の暦を請来することを奏し、村上天皇の勅許を得た。かくして入唐した日延は、新修符天暦という新たな暦を学び、1000巻以上の内典(仏典)・外典も得て、957年に帰国した。蔵人の源是輔とともに駅伝で入京したというが、駅は国家大事に用いられる緊急の交通手段である。日延の帰国が注目されたこと、また入唐僧が厚遇を得られたことがわかるだろう。p.81

 国家事業としての僧の派遣。あと、日本から中国に対しての教義面での影響も興味深い。

 このおようにして表舞台に現れた入宋僧たちだが、その後も彼らは権力者たちと僧の間をつなぐ役割を果たす。重源は1170年代に後白河院の命で明州阿育王山に材木を送っている。また栄西が二度目の入宋の後、1191年に帰国した時、「吾忝くも国主の近属なり」と述べて、明州天童寺の千仏閣建立の援助を約束し、実際に二年後に材木を送付した。この場合の「国主」も後白河を想定しているのだろう(藤田明良「講演 南都の「唐人」」『奈良歴史研究』54)。ただ材木送付の時点で後白河は崩御していたはずで、これを引き継いだ人脈は不明である。p.128-9

 その時、無準は径山が火災に遭って燃えてしまったことも伝えたが、円爾はこれを知って、九条道家謝国明の協力で、径山復興用の材木1000枚を用意した。この時代の材木は、日本の主要輸出品だった。p.157

 中世の材木輸出。ちゃんとペイしたってことだよな。どんな材木を送っていたのだろう。密接な情報の交流と物のやり取り。

 この頃から日元間では、博多―明州ルートとともに新航路も用いられるようになった。福建から琉球・薩摩を経由して肥後高瀬に上陸するというもので、この頃の入元・入明の関係史料からは、この航路を通った事例が何例も確認できる。たとえば絶海中津は1368年、博多からわざわざ高瀬に移動して入明した。従来琉球史研究者は注意していなかったが、この航路の開拓は、琉球東シナ海交通のメインルートに浮かび上がったことを意味する。その前提には、元代に小規模ながら行われていた福建・琉球間の貿易があり(木下尚子代表『13-14世紀の琉球と福建』科学研究費補助金研究成果報告書)、これに九州―琉球間航路を接続して東シナ海の新航路としたのが、福建―高瀬ルートだったのだろう。p.204

 わざわざ高瀬(元玉名市)を終端に選んだのかが興味深い。もっと北上してもよかったのではないかとも思えるのだが。この背景には菊池氏一族の影響があるのだろうか。