ジェームズ・M・バーダマン『ミシシッピ=アメリカを生んだ大河』

ミシシッピ=アメリカを生んだ大河 (講談社選書メチエ)

ミシシッピ=アメリカを生んだ大河 (講談社選書メチエ)

 ミシシッピ川を河口から遡りながら、流域でどのような文化や歴史が展開していったのかを解説していく紀行。だいぶ感触がちがうが、川を扱った紀行と言う点では、『ドナウ川紀行』asin:4004301890を思い出すな。しかし、本書、河口からメンフィスまでの2章で100ページ、全ページ数の40%を費やしている。最初、何だこれはと思ったが、著者紹介を見ると、南部の文化史が専門だそうで、そっちの方が書くべきことが多いから、そうなったのだな。基本的には、黒人音楽を中心とする音楽と文学についての記述が厚い。後は交通路としてのミシシッピや治水が重視されている。
 本書を読むと、アメリカ合衆国が北アメリカの大陸国家として発展する上で、ミシシッピがいかに大きな役割を果たしたかが感じられる。大陸を南北に貫く通路が存在したからこそ、北アメリカの中央部がアメリカ合衆国に接合され、さらには西部へ進出する足掛かりとなった。また、精神文化の点でも、音楽を始め、アメリカ全体を象徴するものが出現している。第一章では、さまざまな通路としての性格が説かれるが、一方で、征服と殺戮と破壊の道であったことも、指摘するべきだろう。先住民に関連するトピックも入っているし、アメリカ合衆国の人間として、そのような側面から議論するのは難しいのもわかるのだが。
 あと、本書ではニューオーリンズが大きく取り上げられている。場所や地元の料理や店が紹介されていて、著者がこの街に親しんでいる様子がうかがえる。本書の刊行は2005年8月で、この直後に、ハリケーンカトリーナ」によってニューオーリンズは大きな被害を受けている。それによって、街はどのような変化を蒙ったのだろうか。あるいは、ケイジャンたちの文化は、カトリーナと海底油田の事故で、どのような影響を受けたか。


 以下、メモ:

 今日でもミシシッピ川は、トウモロコシ、大豆、小麦などの中西部の農産物や、鉄鉱石や石油などの鉱産物を輸送するための、きわめて重要な「ハイウェイ」でありつづけている。アメリカから海外へ輸出される穀物の六〇パーセント以上が、平底荷船でミシシッピ川および支流のイリノイ川を運ばれてくるという事実を見れば、ミシシッピ川が農業によっていかに重要であるかは明白である。言うまでもなく農産物の輸送にあたって燃料効率は重要であり、その点で平底荷船と引き船の組み合わせはもっともすぎれている。平底荷船は全国の総貨物のおよそ一六パーセントを運搬しているが、総貨物料金はわずか二パーセントに過ぎないのである。p.24

 ミシシッピ川の輸送路としての重要性。さすが大陸の大河って感じだな。

 さらに時代が下り、ミシシッピ川流域がアメリカ領となってから、貝殻が良質のボタンとなるイシガイが発見され、ボタン産業が興った。それ以前のアメリカでは、ボタンはほとんど海外から輸入されるか、海の海の貝殻で作られるかであった。ミシシッピ川上流地域の最初のボタン工場は1889年、ダヴェンポートの約48キロメートル西にあるアイオワ州マスカティーンに建てられ、この町はほどなく「合衆国のボタンの首都」となった。一〇年後、ミシシッピ川上流の沿岸には、最初の工場を中心に六〇軒の工場が並んでいた。やがてもっと頑丈で規格化された安価なプラスチックのボタンが登場すると、これらの工場は活気を失い、1967年に最後の工場が閉鎖された。ビーバーを狩りつくすには一世紀かかり、ストローブマツを切りつくすには四〇年かかったが、ミシシッピ川のイシガイをあらかた獲りつくすには二五年もかからなかった。p.33-4

 淡水性の生き物をそんな消費財の生産に使ったらと思ったら、最後に落ちが。やっぱりあっというまに資源が枯渇したのな。

 娯楽は船上の客だけではなく、沿岸の人びとにも歓迎された。外からもたらされる娯楽は、どれも船でやってきた。最初に待望の娯楽を運んできたのはキールボートであった。1817年、「ノアの箱船」というキールボートは、ナチェズに繋留されているあいだ、ミシシッピ川最初の船上ステージとなった。蒸気船は音楽だけではなくさまざまな娯楽を運んできたが、芝居など舞台での出し物を見せることを目的とした船も現れた。その種の船はショーボートと呼ばれていた。じつのところ、初期のショーボートは、派手な装飾をほどこした平底荷船や筏に客席を並べただけのものが多かった。自前のエンジンは持たず、別の蒸気船に押されて町から町へと巡業し、英国風の芝居や合奏団のコンサートなど一夜限りの興行をおこなった。
 1831年には、ショーボートとして特注で建造された最初の船「フローティング・シアター号」がオハイオ川とミシシッピ川下流域を航行するようになった。それ以降、ショーボートの設備はより大きく手の込んだものになっていく。1852年に進水した「フローティング・パレス号」は巡業サーカスの公演が可能で、観客を1000人収容することができた。娯楽の需要が高まるなか、当時のミシシッピ川には合計五三隻のショーボートが航行していた。第一次世界大戦中の1910年代半ばでさえも、一八隻ほどのショーボートが沿岸の町を巡業していたのである。p.38

 いかに川が生活に密着していたか。ステージをそのまま移動できるのは便利だったのだろうな。

 第二に、環境の変化は災害の可能性を増大させている。メキシコ湾はハリケーンと熱帯性暴風雨が猛威をふるう地域である。海上で暴風雨が起こると、その進行方向にはまず高潮が発生する。暴風雨が砂州島(海岸線に並行する砂の島)や沿岸の湿原を通過すると、高潮の勢いはそこで減殺される。湿原が幅四キロメートルあれば、そこで高潮は三〇センチメートル分吸収されると推定されている。したがって、湿原が広ければ広いほど安全性が高まるのである。では、現在何が問題になっているのか、ニューオーリンズを例にとって見てみよう。ニューオーリンズはすでに、平均して海面下240センチメートルに位置している。一世紀前、この町は、メキシコ湾の海岸線までおよそ八〇キロメートル続く湿原によって、ハリケーンから守られていた。湿原がハリケーンと高潮の衝撃の大半を吸収してくれたのである。ところが現在、ニューオーリンズとメキシコ湾とのあいだの湿原の幅は三五キロメートルしかなく、しかもそれが急速に縮小しつつある。もしニューオーリンズがハリケーンの直撃を受けたら、どうなるだろうか。この町から脱出するための大きな橋が三つしかないことを考えると、壊滅的な打撃をこうむるのは避けられないだろう。
 手立ては一つしかない。連邦政府と州政府が協力して、ミシシッピ川の流れの一部を変え、ふたたび土壌を肥やして湿原を甦らせ、少なくともこれ以上の陸地の水没は阻止すべきなのだ。それ以外には、メキシコ湾のハリケーンが今後しばらく南ルイジアナを襲わないよう、天に祈るしかないだろう。p.87-8

 まさに本書の刊行の直後に、その災害が起きてしまったわけだが…
 河道を固定することによって、堆積作用が阻害され、デルタが沈降するというのは、どこでもあることなんだろうな。日本でも、河川による土砂の補給がなくなって、海岸の浸食が急速に進みつつある場所が多いし。
 関係ないが、ニューオーリンズって、ミシシッピ川の河口から130キロもあるんだな。

もっとも有名なアメリカ人
 コーディは競馬や射撃コンテストに出場したり、狩猟旅行の案内人を務めたりするかたわら、1868年には芸人としての活動も開始していた。辺境開拓民の荒々しいエピソードを見物客に見せることで、金を稼ぎ、その名を売ったのである。興行師の手腕に恵まれたコーディにとって、ショーはビジネスと愉悦を兼ねており、披露する妙技は自己宣伝の機会でもあった。彼のおかげで、西部の開拓民の生活は見世物に欠かせないものとなった。名士の狩猟旅行の案内人をしていたコーディは、自分自身は西部に足を踏み入れる可能性のない人びとでさえも、西部に憧れを抱いていることに気がついた。一例を挙げれば、ロシア皇帝の子息であるアレクセイ皇子にバッファロー狩りを指南したところ、父親である皇帝の方が大いに喜んだのである。
 コーディは、彼の武勇を虚実ないまぜに書き立てたきわもの的なダイム・ノベル(三文小説)を通じて、西部以外にも名をとどろかせた。そのような小説には、たとえばネッド・バントラインが1869年に発表した『バッファロー・ビル――国境地帯の王者』(Buffalo Bill:King of the Border Men)がある。
 またシカゴでは、主人公のコーディをコーディ自身が演じる続き物の芝居が上演され、いっそう名を売ることになった。1876年までにコーディは、夏には大平原で軍の斥候として働き、冬にはあちこちの都市で舞台に立つパターンを確立した。
 1883年コーディは、アメリカの娯楽文化に大きく寄与する新機軸を打ちだし、大衆のフロンティアについてのイメージを決定づけた。ワイルド・ウエスト・ショー(大西部ショー)という巡業の一座を結成し、野外で西部の珍しい動物を見せたり、カウボーイの離れ業を披露したり、芝居を演じたりしたのである。p.204-5

 「バッファロー・ビル」って名前は知っていたけど、何をやった人なのかは知らなかった。