村上隆『金・銀・銅の日本史』

金・銀・銅の日本史 (岩波新書)

金・銀・銅の日本史 (岩波新書)

 金銀銅の貴金属と日本列島の住民のかかわりを、考古学的に発掘された遺物の分析を中心に述べている本。著者は、学部修士と工学部にいた人で、化学的な成分の分析を中心に、金属の組成とその背後にある生産技術から、歴史の流れを浮かび上がらせている。金属関係は、製鉄なんかもそうだけど、冶金学とか材料科学的な知識が必要で、少々敷居が高いと感じる。本書では、平易に描かれているが。
 本書では、金銀銅の歴史を、草創期(弥生時代から仏教伝来538年まで)、定着期(仏教伝来から東大寺大仏開眼供養752)、模索期(大仏開眼から石見銀山の開発1526年)、発展期(石見銀山から小判座の設置1595年)、成熟期(小判座から元文の貨幣改鋳1736年)、爛熟期(元文の改鋳からペリー来航1853年)、再生期(ペリーの来航以降)と分けている。模索期が長すぎるのではないかというところと、再生期は第二サイクルときっちり分けた方がいいのではないかと思った。
 金属の輝きに見せられた古代の人々と、同時代の工人たちの超絶技巧。さまざまな材料のばらつき、近世の蒔絵と彫金の最高度の発達。飛鳥池遺跡や石見銀山といった生産遺跡から読みとれる過去の生産技術などなど。近世最末期には、手工業で達成できる最高度まで、生産技術が発展していたことが指摘される。


 以下、メモ:

空洞のある鏃
 しかし、分析した銅鏃の中で、ただ一点だけ材質が大きく外れるものがあった。考古学における形態分類では、柳葉型というタイプである。骨盤を貫いていた銅鏃とそっくりな形をしている。この銅鏃は、驚いたことにスズをほとんど含まずに、ほぼ銅だけでできているのである。銅は、スズを含むことで硬く、強靭になる。純銅では、武器としては柔らかすぎるのではないか。ただし、純銅とはいっても、古代の銅には微量ながらもそれなりに不純物が入っているのである程度の強度は持つだろうが、これでは本格的な強靭性を発揮することは難しい。
 この銅鏃の表面は丁寧に研磨され、一見いかにも優秀な銅鏃の雰囲気を持つ。しかし、X線透過撮影で内部を探ると、またまた驚いたことに真ん中に大きな空洞がぽっかりと空いているではないか。よく見ると、銅鏃の中央部の表面が薄くなって小さな穴が開いており、向こう側の光が見えるのである。これには、本当に驚いた。銅だけでは湯流れが悪く、鋳造しにくい。おそらく鋳造したときに生じた欠陥であろう。骨盤に刺さった銅鏃を骨盤から外して分析するわけにはいかないので、同様に銅だけでできているのかは、現時点ではわからないが、銅鏃の形態観察だけではこのような材質の違いによる機能性までを論じることはできないだろう。ここに、科学調査の意義がある。
 これまでにも、銅鏃をはじめ、当時の武器や兵器が大量に出土しているが、材質の面からその優劣を調査された事例は意外に少ない。実戦の武器は、「見かけ」ではない。いかに優秀な機能を備えた武器を手にするかが生死を分ける。有力な部族は、優秀な武器をつくる工人集団を自ら抱えることで、常に最先端の武器の安定供給をめざしたに違いない。では、特殊技能を持つ工人は、特権扱いだったのだろうか。私には、工人集団自体が部族間の争奪の対象になっていた様子が目に浮かぶのだがいかがなものだろう。また、この時期にすでに、見かけだけの武器を扱うような悪徳な武器商人が暗躍していたなどというのは飛躍しすぎだろうか。p.18-20

 見かけ倒しの銅鏃ってのはおもしろいな。儀礼用で純銅であることが重要だった可能性とか、スズの入荷がなくて、仕方なく純銅で矢尻を作ったとか、いろいろな可能性を考えることができるな。想像が広がリング。

 この耳環を、電子顕微鏡を使ってくわしく調べていくと、これほど複雑な作りをしているものに滅多に出合えないことがわかってきた。本体はただ金製の針金を輪にしたものではないのである。その証拠を耳環の輪の切れた端面に見出すことができた。端面には、厚さ約二〇ミクロンの金の薄板を何層にも重ねて構成された複合体(図2-13)に姿が窺えたのである。驚いたことに、最終的に本体を仕上げるのに表面を同じく金の薄板数枚で巻いてあるではないか。当初の予想を超え、あまりに常識を超越した姿であるため、私はしばらくこの状況を理解できなかったほどである。
 私は、この耳環の製作技術を、「金薄板積層成形技法」と名づけた。金糸のところでも紹介したが、現在一般に市販されているアルミホイルの厚さが15ミクロンであるから、20ミクロンの厚さを想像するのは難しくないだろう。しかし、これをどうやって積層にするのか。おそらく、加工と熱処理を組み合わせて、作り上げているとは想定できるが、これも想像の域を出ない。また、何のためにこんな手の込んだことをする必要があったのだろうか。そもそも20ミクロンの厚さの薄板を作ることからしてもたいへんな技術なのである。p.41-2

 古代の超絶技巧。

 富本銭と和同開珎は、基本的には同じような形態を持つ。したがって、これまでに双方を比較検討する際の論点は、文字やデザインなどの銭文の違いのような形態的な特徴が主であった。しかし、それぞれの材質についての研究を進める私にとっては、この二つは、まさに「似て非なるもの」として映る。そして、銅-アンチモン合金という素材の視点からみると、同じ材質を持つ小型ぼう製鏡の存在を改めて見直す必要もあるのではなかろうか。しかし、この特殊な合金が、どうしてこの時期に突然登場し、しかも短命で消えていったのか、まだまだ謎起き古代の貨幣についての興味は尽きない。p.69

 材質からみた古代の貨幣。

 さて、丁銀の持つ奇妙な形に話を戻そう。戦前の話になるが、丁銀と四分一の材質の共通性に関心を寄せていた造幣局で、丁銀を試作したことがある。四分一を伝統的な方法によって作る際には、鋳型にあたるものとして、布を張った湯床という装置をお湯の中に設ける。この四分一鋳造法に倣って、溶けた丁銀の地金を湯床に流し込むと、少しいびつな形をした、真ん中にくぼみのある丁銀らしきものができたという。四分一という合金を通して、丁銀という貨幣と刀装具がリンクしていることが窺える。p.133-4

 メモ。

 起立工商会社勤務から、パリで美術商を営むようになった林忠正の名は、浮世絵や工芸品を積極的に海外に紹介したディーラーとして、そしてジャポニズムの仕掛け人としてつとに有名であるが、銅鋳物の盛んな富山県高岡市に出身ということもあり、彼は金工の普及と改良にも力を注いだ。
 その集大成が、1893年のシカゴ万博に出展した鈴木長吉制作になる「十二の鷹」である。シカゴ万博の事務局評議員を務めた林が立案し、鋳金の名匠鈴木が実現した作品は、十二の異なったポーズをとるブロンズ製の鷹が、金、銀、青金、赤銅、白四分一や黒四分一、銅など、江戸時代を通じて育まれた色金の象嵌で飾られて仕上げられている。起立工商会社の鋳造部の監督を務め、世界の万博で数々の賞の栄冠に輝いてきた鈴木が、実際に鷹を飼い、デッサンを重ねて集約した五〇センチにもなる等身大の精悍な鷹の表情と、一体ずつ変化を持たせて演出する色金の醸し出す誘色の融合は、博覧会でも高く評価された。
 刀装具という小さな世界で培われて、江戸時代に極限にまで到達した日本金工の手の技が、明治時代に芽生えた国際性という息吹を得て立体的・写実的な鷹として具現化した姿は、日本の「金・銀・銅」の到達点といえるであろう。p.192-3

 興味深い。陶芸分野でもそうだが、この時期に特異な輝きを放っているな。

 日本で初めて、一八六二年に火薬による発破を伝えたパンペリーは、火薬の使い方を早くから知っている日本人が、鉱石の採掘に応用しなかったことを不思議がった(第七章1参照)。私はこれは日本人が本能的に持つ、山や自然に対する畏敬の念が知らぬ間に作用していたのではないかと考える。発破によって山を壊し、山の形を変えてまで採掘するなど思いもつかなかったのではなかろうか。鉱山活動を、自然改変を最小限にとどめつつ、自然と共生した循環可能なシステムとして、無意識かに実現していたのが、近代化以前の姿を色濃く残す石見銀山遺跡の価値なのである。p.206

 うーん、たたら製鉄のための砂鉄を得るために、山陰では山を崩しまくって、挙句に堆積作用まで促進したって史実を考えると、そこまで言ってしまうのはどうかと思うが。銀山の間歩方式の採掘では、火薬を使うインセンティブがなかっただけではとも思う。あるいは火薬の供給が潤沢ではない、ないしは利用に政治的な制限がかかっていたか。