「くまにち論壇:国立社会保障・人口問題研究所部長 阿部彩」『熊日新聞』2010-11

 貧困や社会格差の問題についての議論を半年ほど月一程度で連載していたもの。とりあえず5回分を切り抜いている。いろいろと興味深い内容。取り上げているトピックが興味深い。

「「不利」を「障害」となさぬよう」『熊日新聞』10/9/26

 先日、山本譲司氏の『獄窓記』(新潮文庫)を読み終えた。数年前に刊行された本であるが、その内容が、私か先日執筆を終えたばかりの原稿と密接な関係にあったからである。山本氏は元国会議員でありながら、秘書給与詐欺事件で実刑判決を受け、1年以上にわたる獄中生活をおくった。そこで、障害をもった多くの服役囚を目の当たりにする。
 山本氏によると、全受刑者の3割が知的障害者。しかし、「障害者が罪を犯しやすいかと思われかねませんが、そうではありません。刑務所が社会に居場所のない人の受け皿となっているのです」 (週刊エコノミスト、2010・9・14)。ありしも、私か執筆した原稿は、障害給付の国際比較に関するものであった。日本における勤労世代(18-64歳)の障害者数は、約325万人、当該年齢人口の約4%である(内閣府201O)。しかしながら、障害年金生活保護(障害者区分)などの障害に関する給付を受け取っている人の割合は、勤労世代の2%に過ぎない(OECD2009)。
 多くの先進諸国は日本よりも多くの人々に障害に対する給付を行っている。ハンガリースウェーデンノルウェーでは、勤労世代の10%以上の人が障害給付を受けている。日本はOECD平均の3分の1程度にしか過ぎない。この違いは何によるものなのであろう? 日本の「障害」の定義が他国よりも厳しいのではないのであろうか。
 世の中にはさまざまな「不利」をかかえた人がいる。一方では、身体を思うように動かせない人がいると思えば、目が見えない人もいる。他方では、人間関係が苦手な人もいれば、老親の介護をかかえている人もいる。従来の「障害」の定義から外れるにしても、これらはみな、労働市場にて「不利」を抱えているという点では同じである。世の中の「生きにくさ」において、「健常者」と「障害者」は境界線のこちら側とあちら側に存在するのでなく、単に、それは度合いの違いだけである。
 現行の社会保障制度においては、さまざまな「不利」を抱えた人々は「障害者」と認定されて公的扶助の受給者となるか、「健常者」として何の保障も受けず、労働市場にて自立することが求められている。「自立」とは聞こえがいいが、結局のところ、「支援がない」状態のことである。このような中で、「不利」を抱えた人々の一部は、刑務所という選択肢を取らざるを得ないのであろうか。山本氏によると、このような人々の犯した「罪」の多くは万引きや無銭飲食などなのである。
 さまざまな「不利」に対する幅広い支援が整っていれば、刑務所が「福祉の代替機能」を果たすというようなことは防げるはずである。障害学においては、「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」への転換が行われている。「障害の医学モデル」においては、「障害」の根本原因は個々人の心身状況の問題とする。一方、「障害の社会モデル」においては、「障害」は「個人の心身の特徴」と「社会環境における障壁(バリアー)」との相互作用の帰結であると理解する。
 すなわち、障害は障害者の心身の状況に起因・帰結するものではなく、さまざまな特徴をもつ者が自由に活動できないような「障壁」を社会が内蔵していることが問題であるという考えである。それは、例えば、左利きであるという心身の特徴が「障害」となるのは、はさみが右利き用にできているという「障壁」があるからであり、はさみがそもそもユニバーサル・デザインに設計されていれば、左利きは「障害」とはならない、ということである。
 山本氏の『獄窓記』にて紹介される多くの服役囚は、「障害」という言葉が当てはまるかどうかは別として多くの「不利」を抱えた人たちであった。このような不利を「障害」とさせないように、世の中の「障壁」を取り払わなければならない。多かれ少なかれ、私たちはみな、何らかの「不利」を抱えているのだから。「障害者」というレッテルをより多くの人に貼り付けるのではない。程度の差があれ、皆が持っている「不利」を認め、誰もが生きやすいユニバーサル・デザインの社会を構築する。モデルの転換が必要なのである。



 山本譲司の『獄窓記』から、日本の制度の「障害」への見かたの問題点を指摘する。「「障害」は「個人の心身の特徴」と「社会環境における障壁(バリアー)」との相互作用の帰結であると理解する」という「障害の社会モデル」は、非常に納得できるものがある。旧来の「障害の医学モデル」に基づいた制度をそのままにしているために、「障害」を持つ人の多くを無支援のまま放置している状況が指摘される。障害に対する給付を受けている人数が、OECD平均の三分の一というのは、制度の違いというレベルではない。結局のところ、福祉の負担を家庭に丸投げしているということ。
 そういう点では、少子化問題と相通ずるところがある。東日本大震災の復興の経費も考えると、現状の「子供手当」が維持可能とは思えない。しかし、自民党などが声高に唱える「子供手当はバラマキ」という主張には、さらに不信感が強い。そもそも、過去数十年にわたって、家族構成や地域の社会構造の変化を無視して、再生産の負担を家庭に丸投げし続けてきたのが自民党の政策だったのではないか。子供手当に代わる総合的な代案を提示できないなら、結局のところ自民党少子化問題を無視すると宣言しているに等しいのだが。そこのところはどう思っているのだろう。

「民意が決める「最低生活」基準」『熊日新聞』10/10/24

 現代日本において、すべての人が享受すべき最低限の生活とはどのような生活を指すのか。これは、私たち社会政策学者が昔から取り組んできた問いである。この問いに答えるための方法論は多々あるが、近年、イギリスにおいて一風かわった方法でこの「最低限の生活」を決める手法が開発された。
 「ミニマム・インカム・スタンダード(最低生活費基準)」というこの方法は、一般市民数人に集まってもらい、実際に「最低限の生活」に何か必要かを一つ一つ議論しながら決めてもらうというグループ・インタビューに基づく手法である。
 例えば、勤労世代の女性の最低生活の場合は、同じような勤労世代の女性6人から8人に集まってもらい、架空の「Aさん、○歳」の生活を論じてもらう。「少なくとも、靴は仕事用と普段用と2足は必要だよね」「お昼ごはんは、前の日の残りをお弁当箱に入れてもってくればいい」「お茶碗は自分用とお客さん用二つはいるよね」と、このAさんの所持品から友人とお茶をする回数、家の中の備品、そしてなんと毎日の献立や、それらをどこで買うかまですべてを一つ一つリストアップしていくのである。
 グループに選出される人たちは、年齢や家族構成に偏りがないように配慮される。そして、それでも、一つのグループだけでは、たまたま偏った意見をもった人が集まってしまう可能性があるので、一つのグループで作成されたリストは次のまったく別の6人からなるグループに渡され、そこでも、一つ一つその判断が妥当かどうか、議論される。
 例えば、食事の献立が「毎日100円バーガー1個」などのように、栄養学的にそれだけで持続的な生存が不可能である場合がないかなどを専門家がアドバイスするものの、その専門家のアドバイスを受けるかどうかは次のグループの判断による。こうして、合計3回もの一般市民による議論を経たうえで、最終リストが確定し、それらの価格が足しあわされ、「最低限の生活費」が月々いくら必要かを計算するのである。
 この原始的ともいえる手法は実は全く新しい手法というわけではない。「最低必要な品々」を積み上げて、最低限の生活費を算出する方法は「マーケット・バスケット方式」と呼ばれ、日本においても生活保護法の最低生活費(生活保護の給付を受ける所得制限。また、受給額の最高額)の算定に1960年まで使われていた。
 「マーケット・バスケット」とういうのは買い物籠という意味であり、まさに買い物籠に何を入れるか、という発想から発達した手法である。しかし、以前の方法は、リストアップをするのが研究者や行政官といった専門家集団であり、例えば「1週間にサンマ1尾、米○グラム」「下着は2枚」など決めても、その確たる論拠は何もなかった。この英国の手法が新しいのは、その決定権をすべて一般市民に委ね、民主的に決定するという点にある。人々の話し合いの上で、下着が3枚でも1枚でもなく、2枚、と決定されれば、少なくとも、そこには民意があるからである。
 イギリスにおいては、グループに参加した人々は実に論理的に一つ一つの項目がなぜ必要かを論じた。そして、政府の貧困線よりも、高い値がこの手法によって算出された。これは日本の研究者も非常に驚かされた結果であった。彼らが決定した最低生活は研究者の考えが及ばない部分も多々ある。例えば、一人暮らしの高齢者の生活には野鳥のエサ台が必要だ。なぜなら、一人暮らしでアパート住まいの高齢者は自然の動植物と触れ合う機会がなく、唯一のその機会がベランダに来る小鳥である、と。
 イギリスでは、この結果がメディアにも多く報道され、最低賃金などの議論の論拠のひとつとして注目されている。これに触発されて、私たちの研究グループもこの秋からこの手法を日本で試みている。まだ結果が出る段階ではないが、イギリス市民のように日本の市民が論理的に「最低生活」を論じることができるのか、非常に楽しみである。



 「最低限度の生活費」を決定するのに、一般人のグループを集め、検討を三回繰り返す「ミニマム・インカム・スタンダード(最低生活費基準)」という方法が紹介されている。いわば、集合知を福祉の生活水準の決定に利用するということなのだろう。興味深いし、意外と順当な結果が出るのではないだろうか。まあ、「福祉給付を受けるような奴は贅沢するな」とか言い出す馬鹿が大量に混入していたら、機能しないのではないかと思うが。ちゃんと、一定の根拠を持って議論することが大前提だろうな。
 多くの人が関われば、見逃がされがちな所にも目が向く可能性が高いし、そういう点ではいい方法だと思う。

「格差の悪影響社会全体に」『熊日新聞』10/11/28

 貧困というのは、その当該本人や家族の極めて個人的問題であると思われがちである。いくら隣のAさんが困窮していても、ドアを閉め、それを見ようとしなければ自分には関係ない。裕福な地域に住み、「よい」学校に行って、「よい」会社に勤めている人々にとって、日本の中に貧困の人々が存在し増加していることは、自分や家族の生活には影響を及ぼすとは考えられないと思うかもしれない。地域の学校が「荒れれば」、子どもは私立学校に行かせ、公園にホームレスの人々が溢れれば、専用公園があるセキュリティ付きのマンションに引っ越せばよい。
 貧困は、目にしたくなければ見なくてもすむ。貧困は自己責任であると自分自身を納得させてしまえば、見ないことに対する罪悪感を感じることもない。テレビに子どもの貧困のニュースが時たま流れても、通勤路の足元にホームレスの人が寝ていても、無視して生活することは簡単である。
 そのような選択をした人々に、社会に存在する貧困を解決しようと説得することは難しい。それをするために、多くの貧困に関わる人々―私を含め―は、「貧困者はかわいそう」論調で訴えてきた。「貧困の人はこんなに大変」「貧困の子どもに責任はないだろう」云々。そして、彼らを説得する最後の切り札として使われているのが「あなただって、いつ貧困に陥るかわからない」という脅しの一句である(これは嘘ではないものの、その確率は人によってはかなり低い。貧困のリスクは学歴や親の所得、職業階層など所与の事実によってかなり決まっているからである)。
 しかし、このような脅しは諸刃の剣である。これを聞いて、一方で「そうか、だったら貧困を何とかしなければ」と思う人もいるが、同様に、ますます「私だけは大丈夫なように、きちんと貯蓄しなくちや」「やっぱり子どもは私立に」というような防衛反応を引き起こすこともあるからである。結局のところ、貧困は「他人事」の域を出ない。格差がある社会であっても、自分がその格差の上の方にいるのであれば、むしろ格差は歓迎、と考える人は多い。
 しかし、実は貧困も格差も「他人事」ではなく、貧富にかかわらず、社会のすべての人にとって悪影響を及ぼすことが近年の社会科学の研究成果から示唆されている。格差の大きい地域は犯罪率が高い。格差の大きな地域は、人々が攻撃的である。格差の大きい地域では人々の信頼感が低い。格差の大きい国は死亡率が高い。これらは明らかな相関関係がみられる。
 一番衝撃的であるのは、格差の大きい地域の人々は健康状況が悪いことである。これは、ただ単に格差の下の方の人々、すなわち貧困の状況にある人が、そうでない人に比べて健康状況が悪く、そのような人々が増えるから、社会全体の平均値で見ると健康状態が悪くなるというだけではない。格差の大きい地域、貧困の多い地域に住む裕福な人々さえも、より平等な地域に住む同じ程度の経済状況の人に比べて、健康状況が悪いのである。格差や貧困の多い地域や国に住むこと、それ自体が健康に悪いのである。反論もあるものの、すでに日本を含め多くの先進諸国における研究でこれを肯定する論文が多数発表されている。
 なぜ、格差や貧困の多い国や地域に住むことが健康に悪いのであろう?この要因について、詳しいことはまだわかっていないが、一つの強力な説はストレスである。人というのは、どんなに貧困や格差に対して目をつぶっていようとしても、「自分が貧困になったら大変だ」 「あの人は自分から何かを得ようとしているのではないか」といったストレスを感じるものである。「(元)社長ホームレス」などという見出しの週刊誌を目にするようになると、会社役員の人々でさえ心穏やかでないであろう。現代社会はそうして常に「勝ち続ける」ために私たちを追いたてているのである。
 私たちは、貧困や格差を無視して意識外においやったつもりでいても、知らない間に貧困・格差にしっぺ返しを受けているのかもしれない。



 格差が大きい社会では、格差が小さい社会よりも、全ての階層で健康状態が悪いという。他にも、犯罪率、攻撃性、信頼感、死亡率などが、貧富に関わらず悪いという調査結果が出ているとか。
 まあ、セーフティネットがないということは、なんかあればすぐに転落する可能性が高いという訳で、ストレスは大きいだろうな。生き残るために、卑怯な手も使うとなれば、倫理の面でも悪影響が出てくるだろう。そう考えると、当然の結果ではある。で、それは現在の日本国の現状であるともいえる。

「「マタイ効果」に抗うには」『熊日新聞』10/10/26

 「マタイ効果」という言葉をご存じであろうか。この言葉は新約聖書の一節、「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう」(マタイ福音書13章12節)から名付けられた社会現象である。
 「マタイ効果」は、格差は自ら増長する傾向があり、最初の小さい格差は、次の格差を生み出し、次第に大きな「格差」に変容する性質を指す。この現象は、1960年代から1970年代にかけて、アメリカの社会学マートンが「発見」し、その後、さまざまな分野にも適用されている。
 マートンが最初にこの「マタイ効果」が存在するとしたのは、科学の場における研究者の成果の「格差」であった。マートン曰く、研究者は最初は平等の土俵にたって競争していたとしても、いったん、1人がよい研究成果を出すと、その研究者には補助金が与えられたり、よい研究設備が与えられたりと、よりよい成果を出せるように作られている。なので著名な研究者はますます功績をあげ、著名でない研究者はずっと功績を上げられない。研究者間の成果の格差は、おのずと拡大していく。
 同様の「マタイ効果」は、他の分野でも指摘されている。教育の分野では、最初に勉強ができる子は誉められ、勉強が得意だという自負も生まれ、先生も親も期待する。クラスではあてられ、学級委員となり、「できる子」として扱われていく。ますます学力がつく。最初に「あの子は勉強がだめだ」と思われた子は、伸びない。なので学力格差はおのずと拡大する方向にあるという指摘である。
 能力別の学級が導入されていたり、学力で子どもを振り分ける学校制度であると、この傾向はますます強くなる。スポーツなどでも同じであろう。最初の入団で野球がうまい子は、レギュラーのポジションを与えられ、期待され、自分も負けられないと思って、ますます野球がうまくなる。野球がうまくない子は、うまくなる機会がなかなか与えられない。学力でもスポーツでも挽回するケースもあるものの、その確率は少ない。
 経済の分野でも「マタイ効果」は明らかである。裕福な人は預貯金することができ、利潤の高い投資先に投資することもでき、お金がお金を生んでいく。その上、利息は預ける金額が多いほど、高かったりする。貧困層は、毎月の生活に追われて貯金をすることはおろか、借金をして利息を払わなければならない場合もある。さらにお金が必要となるのである。
 貧困を研究する者として、この「マタイ効果」理論を知って「なるほど」と思うところがある。貧困の人々には、「なんで、また」と言うくらい不利が重なっていく場合があるからである。親が貧しかったので高等教育が受けられず、そのため非正規の仕事にしか就けず、辛い仕事で病気になり、病気休暇を取れないので解雇になり、仕事がなくなったので家賃が払えず…。というように、不利が不利を呼んでいく。確かに「マタイ効果」が存在するのではないか、と思わざるを得ないのである。
 重要なのは「マタイ効果」が社会に内蔵されているということである。社会のしくみ、ルールとして、そうなっているのである。
 「それでは、私たちは、マタイ効果を、重力のように、自然の摂理として受け入れるしかないのであろうか」。『The Matthew Effect‥ How Advantage Begets Further Advantage』(『マタイ効果‥アドバンテージがさらなるアドバンテージを生む』、英書、タイトルは筆者訳)の著者で社会学者であるリグニー(Daniel Rigney)は嘆く。私たちは、マタイ効果に抗うすべを持たないのか。そうではない。リグニーは、マタイ効果を逆行するシステムを作るのに必要なのは、私たち、特にマタイ効果の利益を受けてきた層の人々が、自分自身のポジションが自身の能力や努力の結果だけではなかったであろうことを認識することであると言う。
 これは、時として非常に辛いことであるし、心地よくないことである。しかし、「マタイ効果」をあたかも存在しないように振る舞っていると、格差はがん細胞のように増幅して社会を蝕むであろう。



 格差は増幅されていくという「マタイ効果」の話。直感的にも、それは分かりやすい。一旦、負け側に入ると、逆転するのが難しいというのは、現実だろうな。
 そう考えると、「自己責任」という言説が、最悪のポジショントークであることが理解できる。「競争」とはよく呼号されるが、実際には「公平な競争」というのは、極めてまれで難しい。マタイ効果にあらがうための術として、「私たち、特にマタイ効果の利益を受けてきた層の人々が、自分自身のポジションが自身の能力や努力の結果だけではなかったであろうことを認識すること」が必要だという。実際のところ、人間の卑小さというか、人間にできることは案外少ないということは、都合よく無視されていることが多い。環境を変えていくというのは、非常に難しい。

「低所得層に深刻「時間の貧困」『熊日新聞』11/2/27

 息子が4月から小学校に通うので、地元の公立小学校の説明会に行った。説明会は平日2時から。当然、私は職場に年次休暇を要請しての参加である。説明を聞いて、また驚いた。保護者会が入学後2日目に予定されている。これも平日昼間である。それでなくても、3月、4月は、保育園の卒園式、小学校の入学式と年休を使う日が多い。この週は、2日も休暇をとらなければならない。
 幸い私の職場はワーク・ライフ・バランスを提唱する厚生労働省に属する研究所なので、子どもの学校行事のために仕事を休むことに嫌な顔をする上司はいないが、かといって、その分、仕事が減るわけでもない。年次休暇を取っても、ほかの日に残業してすむのであれば、まだなんとかなるものの、そこが育児と仕事の両立の難しいところである。ほかの日にだって、子どもがいるので残業するわけにはいかず、その週は、5日分の仕事を3日でこなさなければならない。結局のところ、ワーキングマザーに唯一残された自由時間―睡眠時間―を減らして対処するしかない。
 「ワーク・ライフ・バランス」の現実は、こんなものである。公務員である私でさえこの状態なのだから、非正規労働で働く親やひとり親世帯の親の苦労は想像を絶する。
 ある母子世帯のお母さんから。「経済的な貧困も厳しいが、時間の貧困も深刻」と言われたことがある。実際に、時間調査という一日24時間をどのような活動に時間を費やしているのかという調査をすると、6歳未満の子どもをもつ母子世帯の母親が、平日に育児に費やす時間は平均たったの46分であった。
 同様の現状は、ふた親世帯でも見ることができる。厚生労働省「21世紀出生児縦断調査」という2001年生まれの子どもを継続してフォローしている調査を分析すると、平日・週末ともに母親や父親と過ごす時開か極端に少ない子どもが少なからず存在し、その割合は所得が低い層ほど高いことがわかる。
 世帯の所得順に子どもを5分割し、一番世帯所得の低い2割の子どもを低所得層、高い2割の子どもを高所得層と名付けると、平日、母親と過ごす時間が1時間未満の子ども(7歳)は、低所得層では5.1%、高所得層の子どもでは3.0%であった。週末に母親と過ごす時間が2時間未満の子どもは、低所得層では3.5%、高所得層では1.7%。平日に父親と過ごす時間が1時間未満なのは、どの所得層でも多く、低所得層では40.8%、高所得層では51.2%である。だが、週末では、低所得層の子どもの方が父親と過ごす時間は少ない。高所得層の父親は平日は帰宅が遅く子どもと過ごす時間少ないが、その分、週末で挽回しているのであろう。所得が低いほど、子どもが親と一緒に過ごす時間が短い傾向は、分析をふた親世帯に限っても同じである。
 「貧乏暇なし」という言葉が示すように、昔も低所得層の親は忙しかった。しかし、かつては多くの人々が農業を中心とした自営業に携わっており、夜まで内職や家事に追われていても、親は子どものそばにいた。しかし、現代日本の労働形態はそのほとんどが賃労働であり、親が働く傍らで子どもが宿題をするというような状況はむしろ珍しくなった。
 親が長時間労働や時間外労働を強いられる中、子どもは親の不在の中で育つ。事故のリスクも当然のことながら、勉強への影響や情緒的な影響もあろう。父親か母親どちらか一人だけであれば、もう一方の親がカバーもできるが、ひとり親世帯であったり、共働きである場合それはかなわない。経済状況が悪化する中、親1人の所得で家計を支えることは難しくなってきており、共働きはこれからも増えるであろう。
 誰もが均等にもつ1日24時間。しかし、このうちどれほどを自分や家族のために使えるのかは、その世帯の経済状況や家族形態によって左右される。「時間の貧困」と金銭的貧困は隣り合わせである。子どもが母親や父親と過ごす時間は「贅沢品」となってしまったのであろうか。



 社会的孤立が格差に直結している状況。片親世帯だと、子供を構えない→教育・養育環境の悪化→学歴・経歴の格差と、一方的に開いていくわけで。小学校で、まともに食事をしていない子供やまともなしつけを受けていない子供がいるって話が、新聞で取り上げられるようになったが、まさに「時間の貧困」の問題なんだろうな。一月あたりに、「食費は一日に300円で済むから生活保護は減額しろ」なんてことを言った御仁がいたけど、食事を安く上げるには時間というリソースを消費する必要があるわけで、そのリソースも欠けばどうしようもなくなるわな→http://d.hatena.ne.jp/taron/20110126#p8