本田毅彦『インド植民地官僚:大英帝国の超エリートたち』

インド植民地官僚―大英帝国の超エリートたち (講談社選書メチエ)

インド植民地官僚―大英帝国の超エリートたち (講談社選書メチエ)

 19世紀後半以降、イギリス帝国のインド植民地統治を担ったインド高等文官が、どんな人々だったかをプロソポグラフィシュに明らかにしている。第一章が出自とキャリア、第二章がインドのナショナリズム高揚の中でインド高等文官たちがどう変わっていったか、第三章は私生活、結婚、社交、退職後のキャリア、子供の教育を検討している。本書の著者は『大英帝国の大事典作り』も書いている。テーマがずいぶん離れていて、ちょっと驚いた。
 インド高等文官制度は、1855年に公開学力試験によって選抜される、メリトクラシー的な性格をもつ「近代的な」官僚制度となった。その後、1892年の改革によってラテン語ギリシア語の科目が増加し、オックスブリッジ出身者が有利なように変えられ、もくろみ通りオックスブリッジ出身者が多数を占めるようになった。また、本書では、1892年から19147年に採用試験合格者が検討の対象となっているが、彼らはインドのナショナリズム高揚に直面し、対応する必要があった世代であったことからだそうだ。
 興味深いのは、本書で明らかにされるインド高等文官たちの出自と配偶者。出自に関しては「書式A」呼ばれる家族的背景を説明する文書を中心に検討している。「文化資本」の観点からは、「かなり狭い、社会の特定の範囲から選ばれていた」と指摘する。「教育を受けた中産階級」が中心だったが、特に以下の二系統の出自が目立つ。第一に、インドやその他のイギリス植民地帝国に関わりをもつ家系が多いこと。インド高等文官をはじめとする官僚、軍人、聖職者、法律家、技術者、プランター、金融商業家など、インドで活動した人物の息子が多い。第二は、「教育を受けた中産階級」の中核を占めた聖職者の息子たち。インド高等文官の職業的アイデンティティが「教化」という観点から聖職者のそれにかなり近いとも考えられていたこと。聖職者の息子にとって、「適当な」職業が限られていたことが要因として指摘されている。このような「家系的伝統」が影響していたとされる。また、配偶者も同様に、かなり狭い範囲から選択されていた。聖職者ないしはインドで公務に従事している人物の娘が大半を占めていた。子供に関しても、同様の社会的ポジションを維持すべく、教育に熱心であり、パブリック・スクールからオックスブリッジに進ませようとした。ただ、子供に関しては、情報源が狭いように思った。このあたりの階級の範囲の狭さは興味深い。
 キャリアの問題も興味深い。が、感想を書くために読み直すと、上級ポストにどのようなものがあるか分かりにくい。管区長官とか、行政参事会とか、いろいろあったようだが。インド高等文官は、行政・司法・政務・スペシャリストの四分野に分かれる。政務は、インド内の藩王国や隣接する諸国との外交交渉を担当し、スペシャリストは会計や関税、郵便業務などの専門分野を担った。行政や司法は各州ごとのカードルにわけられ、県の業務を経験した後、10年から20年ほどで県知事になり、地域の法秩序と徴税を担当する。このあたりまでは基本的に年功序列で昇進し、大半が県知事職を経験する。その後は能力次第で、上級職に就くことになるという。爵位を成功の指標にすると、政務やスペシャリスト部門が高いなど。また、死亡率が意外と高いのも興味深い。20%ほどは職務の途中で死亡し、自殺や他殺が意外と高い。
 第二章はインドのナショナリズムにどう対応したか。それとインド高等文官の関わりについて。1919年のモンタギュー=チェルムスフォード改革と1935年インド統治法の二つの改革をそれに高等文官たちがどう関わったか。前者の改革によって、インド高等文官の考え方がどのように変わっていったか。改革を進めたインド大臣モンタギューと高等文官たちのスタンスの違い。インド人に一部権限を委譲するダイヤーキー、官吏にもインド人を増やしていくインド化で権威構造が変わっていく中で、高等文官たちがどのようにアイデンティティを変えていったか。1935年インド統治法への高等文官たちの関わり。ちょっと、まとめきれないが、動態的な分析が興味深かった。


 以下、メモ:

 イギリスの著名な社会史家、ノエル・アナンの指摘によれば、19世紀半ば以降のイギリス社会には「知的貴族intellectual aristocracy」が登場しつつあった。彼らは、聖職者層を母体として、いわゆる知的専門職(法廷弁護士、内科医、大学教師、官僚など)に従事する男性たちから構成されたが、その青年期において、オックスブリッジで「教育を受けたeducated」という経験を、ほぼ共有していた(したがって「教育を受けた中産階級 educated middle class」と表現されることもある)。
 そして、その後のイギリス社会の歩みにおいてさまざまな局面で重大な役割を果たすことになる、この新たな社会層が形成され、安定化するのに際して、きわめて有用な社会・経済上の経路ないし基盤を提供したのが、実はインド高等文官制度だった。同制度が、高度の学歴を有する若者たちに「競争学力試験」を課し、それをパスした人物に社会的威信、経済的報酬、政治的権力を与える、という近代社会の主要な構成原理の一つを先駆的に体現したシステムであったからだった。p.11-12

 メモ。メリトクラシーの話。このあたり、竹内洋パブリックスクールasin:4061491342を連想させた。ずいぶん昔に読んだきりだが。

 1931年から1947年にかけてインド高等文官として勤務した経験を有するS・バーク教授は、A・ユーイングとの間で行われたインタヴューの中で、インド高等文官制度はあきらかに、西洋スタイルの教育を受けたハイ・カーストのインド人青年にとって、きわめて魅力的な就職口だった、と述べている。つまり、インド社会の文脈においても、インド高等文官職は、イギリス式教育をいちはやく摂取した知的中産階級という、小規模で、ごく限られた範囲の社会階層に属する人物たちにとって、はなはだ好ましいキャリアだったのである。p.42

 興味深い。

 推測されるとおり、インド高等文官試験を受験した者たちが大学で履修した科目の内容はイギリス社会において「伝統的」な教養とみなされるものであり、また、1982年から1914年にかけて特筆に値する変化は生じなかった。オックスブリッジ出身者たちの中では、古典学ないしは数学を学んだ者たちの数が圧倒的に多かった。他大学出身の受験者の中でさえ、より「近代的な」科目、たとえば自然科学や社会科学などを学んできた者たちの数は少なかった。
 逆説的な表現だが、「官僚」になろうとする者たちにとっての学問上の素養に関して、この時期のイギリス社会においてほとんど議論が行われることがなかったという事実は、ある意味で示唆的であるように思われる。インド高等文官制度に限って考えてみると、とりわけその司法部門に配属されている者たちに関して、彼らの有する法律上の知識の不十分さが、時として慨嘆の対象とされることはあった。職業的な意味での法律学教育を一度も受けたことのない、インド高等文官制度に所属する裁判官たちが、インドの法廷において、イギリス本国で法廷弁護士となる資格を得たインド人の法律家たちによって策略にかけられ、赤恥をかかされるという状況が、しばしば生じていた。しかしそれにもかかわらず、インド高等文官になることを志望する者たちは、大学の学部生時代に法律学を学んでいるべきである、といった議論が真剣に行われることはなかった。p.48

 このあたり興味深いなあ。このあたりフランスやドイツあたりの方が法律家としての資質を求められたんじゃなかろうか。近世のルネサンス王政から絶対王政期に、中産階級が宮廷に食い込んでいく際の武器が法律学であったことを考えると、ずいぶん逆説的な感じだな。

 クラブ内部でのポリティクスが、政庁の政策の実効性に影響を及ぼすこともあった。1930年10月、マドラス総督サー・ジョージ・スタンリーは、同州の西海岸地域を巡察する旅を行っていた。彼はカリカットを訪問し、同地において市民的不服従運動が処理されている方法が満足できるものではないことを発見した。すなわち、スタンリーの訪問直前、ガンディーの誕生日に合わせて、インド人ナショナリストたちがガンディーの巨大な肖像を掲げて行進を行ったが、これに対してカリカット県当局は何の行動も起こさなかった。実際にはこうした事態は、同県の県知事E・ゴーン(1912年合格)と警視との間での個人的な確執に起因していた。両名はゴルフ・クラブの運営に関して敵視しあっており、かくしてカリカット県当局は二つの陣営に分裂していたのだった。スタンリーはインド総督アーウィンに対して、自分は両名を同県から転出させる意向である、と伝えている。p.158

 高等文官たちの社交生活に関して。県知事以下の地方を担当する官僚たちは、イギリス人人口が少ない都市に孤立して住んでいて、その結果、その都市に住む数家族からなる「ステーション・クラブ」での社交生活を余儀なくされていた。で、このクラブの運営次第では上のような自体も起こりえたという。

 彼が憤慨したのは、この「若者(インド人官吏)が、クラブのメンバーたちの大半に比べてより優れた教育を受け、教養を身につけているだけでなく、彼が(インド高等文官制度の)メンバーである」が故、だった。おそらく、相当数のインド高等文官たちの心中では、高等文官制度とは、それへの参入が志望者の有する知性と教養のみを基準として決定される、「サーヴィス」という観念に献身する知的貴族階級であり、いったんそれへの参入が認められれば、もはや人種の区別は問題とされるべきではない、と考えられるようになっていたのである。彼らにとっては、そもそもビジネスに携わるような人物たちこそが、軽蔑されるべき存在だった。彼らは知性の点で劣っており、「サーヴィス」についての意識を持ち合せていないから、だった。p.164

 すごいエリート意識だな。あと、第一次世界大戦後あたりの時代のようだが、このあたりの感覚の変わりようも興味深い。