クレイ・シャーキー「新聞、考えられないことを考える」:Clay Shirky's "Newspapers and Thinking the Unthinkable"

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 どうなるかがわかっていても避けようがない破局か… 自分が慣れ親しんだ世界が、どうしようもなく崩れていく状況で「現実主義」を貫けるほど強い人間は多くないということなのだろうな。
 制度的に保護されてきた日本の新聞業界も、他の国と同じような道をたどりつつあるしな。ただ、アメリカの新聞業界の破局的状況はともかくとして、ヨーロッパ諸国、特に非英語圏ではどうなっているのかという話は日本ではあまり紹介されないな。アメリカの独特すぎる制度は必ずしも、他の国の参考になるものではないし。
 日本では、新聞の機能がどのような形で代替されるか。あるいは、制度的な保護を受けて、淘汰されつつ生き残るのか。寡占化が進んで制御されやすくなったマスコミは、「ジャーナリズム」なのか。どうなるんだろうねえ。

という堂々巡り。新聞を救う使命に駆られた人たちは、「昔のモデルが崩壊したんなら、代わりに機能するのはいったい何なんだね?」と回答を迫る。答えはこうだ。「回答なし」。機能するものなんて何もない。インターネットが破壊したばかりのものに代わる新聞産業の一般モデルなんて、ないのである。


オールドエコノミーが瓦解する中、産業生産用に完成された組織形態は、デジタルデータ用に最適化した構造に挿げ替えが必要となった。出版産業の現状は、ますます語ることさえ憚られる状態になっている。これまで出版は「一般大衆に情報を届ける」という信じられないほど困難で、複雑で、金のかかる部分を解決してきたわけだが、このコアの課題が、もはや課題ではなくなってしまったからだ。

社会は新聞を必要としない。必要なのはジャーナリズムだ。1世紀もの間、ジャーナリズムの強化と新聞の強化は互いにあまりにもきつく1本に括られてきたので、どっちがどっちか見分けがつかなくなっている。これは佳き偶然だった。が、その偶然が終わった今(まさに我々の眼前でそれは終わっている)、それに代わる様々なジャーナリズム強化策が求められている。