村上道太郎『染料の道:シルクロードの赤を追う』

染料の道―シルクロードの赤を追う (NHKブックス)

染料の道―シルクロードの赤を追う (NHKブックス)

 うーん。草木染めの染色家が、古代の染め織の実物を観察した結果などから、染料や染めの技術がどう展開したかを追った本、なのだがどこまで信用できるのか。学問的には、どうなんだろうな。おもしろくなくはないのだが…
 古来から西アジアと東アジアで織物の技術・現物の交流が盛んに行われていたことは分かる。また、ラック、コチニール、紅花などの染料の移動なども。漢の時代には河北では染色技術は未熟で、基本的には南方の技術だったのではないかという話は興味深いが、本当かどうかは不明。
 織物の東西交流に関連しては、『シルクロード学の提唱』asin:409626055Xという対談本の第六章「製糸技術と絹織物」で専門家が議論していて、織物って難しいなあという印象を持っていた。今、読み直すと、染めの方の議論はほとんど行われていない。本書の著者が不満を漏らしている、染料の技術史に関する研究が進んでいないという状況は正しいのかなと感じた。染料の研究は難しいだろうし。


 以下、メモ:

 それとは裏腹に胸の中では、丁子(チョウジ)という「浮き」のようなツボミの影が浮いたり沈んだりしながら私の目を誘うのでした。
 丁子といえば知っている方や聞いたことのある方も多いでしょう。これはもともと香辛料です。英語ではクローヴ。テンニン科。その形が丁という字に似ているので丁字と呼びました。
(中略)
 私は幡の黄色を丁子で染めることとしました。媒染は椿の灰汁。ただ中国に椿の灰があったかどうか。椿というのは日本でつくられた漢字です。中国語ではチンとかチャンチン。山茶と書きます。椿は本州から九州の海岸べりの山地に生える常緑高木です。あるいは、紫などの媒染剤としても使われる椿の灰汁は日本のオリジナルかもしれません。p.72-6

 へえ、丁子って、染物にも使えるのか。中近世のヨーロッパが大金を投じて求めたというのは基本的知識だが…

 私が見事に「復元」された「文政年間の赤いフェルト」を手にしたのは、それから間もなくでした。早速、私は繊維工業試験場に堅牢度試験を依頼しました。その結果、耐光度四級以上。耐摩擦度四-五級の最高の強さであることがわかりました。堅牢度というのは、光にあせやすいか、摩擦で色が落ちないか、汗にはどうか、洗濯には、といった条件に強いか弱いかの度合いをいうもので、「日本標準規格」では「五級」を最高としています。考えてみれば、馬鹿馬鹿しい規格で、いくら堅牢度があっても健康に害をあたえるとしたら何にもならないのです。よく「草木染め」は弱いとか、色落ちがするなどと非難されますが、むしろ反対なのです。古代アンデスの壺や織物をこつこつ集めて、ペルーのリマに自力で「天野博物館」を残した故天野芳太郎氏は、チャンカイの織物について、「1500年も前の織物が、布地はボロボロになっても色だけはしっかりと元のまま残っている」と言っています。「草木染め」に対する非難の多くは、何でも早く結果が出るのが当たり前のように考えている現代病に責任があります。何度でも、ゆっくり、手数をかけて染めようという気持ちを失った心に責任があります。しかし、「そんな余裕は」とか、「それではお金が」、とかおっしゃいますが、何千年もの間、人類が生活文化として積み上げてきた「命の色」は、テレビのチャンネルとは違うことを申し上げておきます。p.125

 草木染めの強さについて。まあ、そうやって手数をかけていたからこそ、前近代には服は高くて、財産扱いされてきたんだろうな。

 この青が藍で染められていたことはまず間違いないでしょう。ただ一口に藍といっても、藍には大変種類が多いのです。今、日本で普通に使われているのはタデ藍。タデ科の一年生草本です。これはベトナム生まれ。もしかしたら倭人が持って来たのかもしれません。しかし、それ以前に、現在では「幻の藍」といわれるエゾタイセイというのがありました。これはヨーロッパのものと同じジュウジュカ科の二年生草本です。アイヌ語ではセタアタネと言い、北海道やサハリンの海岸に生えていたという話です。
(中略)
 中国の藍にも色々あります。福州馬藍(福建省・台湾の対岸)、蜀州藍葉(四川省)、江陵呉藍(浙江省)、菘藍(浙江、福建省あたり)、浙江大青、またインドにはインド藍(木藍など)。ヨーロッパには西洋菘藍(ウォード)。南米にはナンバンコマツナギ、チャピナなど。そして沖縄にはリュウキュウ藍と、藍は世界中にあります。その大半は染料として薬として、まさに人類の生活文化を助けてきた大恩人だったのです。p.143-4

 へえ、藍ってそんなに種類があったのか。知らんかった。

「絹というと、だれでも中国起源と考えやすい。それで、インドの絹というのは、中国からシルクロードを通ってカシミールに入り、中国の影響下にはじまったといった具合に西洋の人たちは考えている。
 ところがインド側からみると決してそんなことはない。インドの古典に絹に関する言及がかなりたくさんあって、……中国から絹を受け取ったなんていうもんではないというのが、インドの人たちの見方だ」(中尾佐助氏)
となると、絹の黄帝起源説などの伝説は、やはり黄河付近の漢民族の大国の作り話ではなかったかという疑問が濃厚になってきます。p.149-150

 『栽培植物と農耕の起源』asin:4004161037を見ると、養蚕は照葉樹林帯の産物だと考えているようだ。アッサムの産地から中国の南西部にかけてが変異が多いと指摘している(p.69-70)。