ジョン・ハーヴェー『中世の職人:1職人の世界』

中世の職人 (1) 職人の世界

中世の職人 (1) 職人の世界

 中世イングランドの職人について全体的に解説している本。イングランドの「職人」を様々な一次史料から描き出しているため、情報源としては有用。第一章のヨークの人頭税課税の記録から、どのような職人がいたのか、どのような規模だったのかなどを明らかにしているのは興味深い。また、建築や金属加工関係の職人を中心に扱っているのが、経済史だと織物に集中する状況と対比的で興味深い。
 欠点としては、訳文が読みにくい。読んでいてい意味が通らないところが結構ある。あと、索引が付いていないのも欠点。このタイプだと、引けないと有用性がずいぶん低下するのではないか。あとは、研究史とか建築に関する知識がある程度ないと、分からないところだらけってところか。
 内容としては、第一章がどのような職種が存在するかを、ヨークの人頭税課税の文書や自由人身分取得の文書から、時代変遷も含めて明らかにしている。第二章は、ギルドについて。このあたりは色々と日本でも研究が進んでいるので特に注目する必要もなさそう。宗教的機能について、「フラタニティ」を「講社」と訳しているが、通常は「兄弟団」と訳すんじゃなかろうか。第三章は、職人の訓練について。意外と識字率が高かったという指摘と徒弟修業の契約について。第四章は職人の労働時間、給与、度量衡など。第五章はどんな場所で仕事をしていたか。第六章は職人のデザイン能力やそれぞれの分野の解説。


 以下、メモ:

裕福な一地区では、労働力を雇用していた大部分の人々が、宿屋の主人か、あるいは手工業よりも商売に従事していた人であったという決定的な証拠がある。p.62

 宿屋の主人ってのは、人を泊めるだけではなく、仲買人に倉庫業に金融なんかもやったりするからなあ。

 1377年の復命書の現存する部分がきわめて少ないことは不幸である。もし全部残っていれば、雇人の数を相当完全に教えてくれたに違いない。1381年の課税のために記録されている、より少数の雇人の数と一緒にして考察すれば、それでも中世の手工業が相当程度まで、「小親方」(little masters)の手中にあり、その結果として、ある業種に入った若い人が、やがて自分自身の店をもつことを希望できたという一般的見解を確認できる。1377年の課税復命書が残っている特免地をカヴァーしている一教区、すなわち、セントオレイヴ・マニゲイト・ウィズ・セントジャイルズにおいては、たった一人しか雇人をもたない雇主の数ですら、実際非常に少なかった。このことはまた、このように特権を与えられた地域が、都市の自由人として高い負担と仕事に伴う他の支出にたええなかった比較的貧しい職人の逃避場となっていたという結論を裏書きするものである。セントオレイヴ教区租税負担人として記録されている合計243人中、召使がわずかに約28人であることは、ヨークの他の端にあるセントセイヴィア教区の203人の租税負担者中67人が召使であったのと著しい対象をなしている。p.64

 14世紀だと、黒死病による人口減少が有利に影響したのかもしれないな。中世後期というと、職人層の階層文化とギルドの寡頭支配の進展ってイメージがあるけど、国や職種によって差があるのだろう。

 まず第一に、中世は聖職者などをのぞいて、一般に文盲の時代であったという誤った考えを捨て去らなければならない。初級以上の学校の数はおびただしかった。ほとんどすべての教会の入り口で初級学校が開かれたと想定してもよいだろう。もちろん、状況は、1500年またはそれ以後と1100年とでは同一ではなかった。しかし、都市に住む自由人の間で、文字を解する人々の数は13世紀以降高かったと想定できる十分な理由がある。資質は重要であり、職人の教育という問題と高度に関わりがある。熟練技術をもつ職人は、ほとんど常に自由人出身であった。多くの業種とくに石工の間では、自由身分であることが必須のこととして強調された。ともかく領主の意志にさからえない人はだれでも、農奴として本来的な労働に従いながら、かつ熟練した職人として訓練することは現実には不可能であった。だから職人の識字率は、人口全体の識字率とは実質的な関係はない。
 第二に、自らの責任において仕事を遂行する人はだれでもある程度の教育が必要である。中世に金額を計算するには、割符を割った二つの小木片の上に記録された絵のような傷跡によったという迫真の事実が有名であるので、中世の計算が、1200年頃以降、おびただしい数の記録に残されているという別の事実が忘れられている傾向がある。どの実務家も、自分自身はかなり文盲に近かったので、書記を雇っていたと一般に想像されている。これは説得力があるとは到底いえない。ただ比較的豊かな商人だけが、計算を記録しておくために書記を傭う余裕があったのであろう。そして、書記をもつ余裕のある人は自分自身もある程度の教育のあることが多かったろうに、比較的貧しいギルド仲間にとっては、書記をもつことが必須の問題であったというパラドックスが起こるのである。p.92-3

 職人の識字率が比較的高かったという話。都市の中産階層と考えるなら、中世盛期以降、識字率は持続的に上昇していっただろうな。

 12世紀初期から、イングランドの1フィートは現在用いられているものと同じであり、3フィートで1ヤード、6フィートで1尋(fathom)であった。16フィート半が普通の1ロッド(rod)―1ポール(pole)、ときには1パーチ(perch)であった。
 たとえば1337年石工頭のウィリアム・ド・ラムジー親方と大工頭のウィリアム・ド・ハーリー親方の立会いのもとに、ロンドン塔の城壁の一つが測られ、そこが2ローヤル・パーチ(royal parch)であった(各ローヤル・パーチが16フィート半とされている)。このように、ときどき〔異単位間の〕換算を明示する証拠記録がある。ランカスター侯が領有するペヴンシーの名誉領の中心である、ペヴンシー城において、1391年には、ロンドンで購入しランカスター侯の保有農(の用務)の基準とするのにペヴンシーに送られた封印した種々の国王の基準度量衡計器に、1ポンド18シリング6ペンス支払っている。1469年までには、ハンドレッドウェイト(hundred weight)は、すでに112ポンドで、1ハンドレッドウェイト5シリングの割合で10ポンド6シリング1ペンス支払ったというと、鉛41ハンドレッドウェイト25ポンドということになる。
 多くの度量衡は慣習的なもので、ドリエイト(doliate)はともかくも、2240ポンドの常衡〔メートル法以前にはほとんどの英国圏で、貴金属、宝石、薬品以外のすべてのものの重さを表示するのに用いられた衡量〕であることが多かったらしく、フォザー(foher)あるいはフォダー(fodder)は、一般に1トン前後ではあったが、測る品物ごとに〔その重さに〕変動のある衡量であったといわれている。〔1フォーダは、鉛の場合は19ハンドレッドウェイト半、石炭の場合は、17ハンドレッドウェイト半〕
 石は、一般に容積トン(tons tight)で測られた。それは大まかにいって現在の容積トンに相当する。本書の対象とする時期の少し後のものではあるが、1594年の興味ある計算を引用してもよいであろう。
 すなわち、エセックスのサーロックに海路運ばれたビアー・ストーン(Bear Stone)は、18フィート平方単位を1トンとして計算している。現在の度量衡によれば、ビアー・ストーンは、1立方フィート当たり132ポンドと計算されていた。それで、18倍すると、本当の1トンが2240ポンドに対して、2376ポンドでだいたい1トンとなる。1543年頃、石炭は、30袋(Sack)1荷(load)とされたいたが、しかし、ヘンリー8世の治世の1袋と1荷の実際の大きさは、いずれもまったくわからない。
 他方、石膏職人であるロンドンのジョン・サーストンが、パリの石膏4山(mount)に1山8シリングの割で支払いを受けた時、1山は、30ハンドレッドウェイトと規定されていた。また、1548年に、サリーのレザーヘッドの80エーカーの土地に関する文書部の一布告は、「この地方の慣習に従って、1ポール(pole)18フィートとして」エーカーが計算されるべきことを定めた。この長いポールは国王の御猟場で用いられた尺度で、また、サリー全体がかつては御猟場であったのである。p.135-7

 各種の単位について。こういうのってめんどくさいんだよな。暗算するときは1ポンド500グラム、1ハンドレッドウェイト50キロで計算するけど。