松木寛『御用絵師狩野家の血と力』

御用絵師 狩野家の血と力 (講談社選書メチエ)

御用絵師 狩野家の血と力 (講談社選書メチエ)

 おもしろくなくはないのだが、歴史観がアレなのがなんとも。「江戸時代は封建社会」とか言って、参考文献に豊田武なんぞ昔の本を出してこられた日には、頭を抱えるしか。江戸時代の社会をを「封建制」と定義したら、本家本元のヨーロッパに「封建制」がなくなってしまうよ。つーか、中世ヨーロッパを「封建制」と理解することにすら、疑う意見が出ているのに。正直、「封建制」とか「資本主義」なんてのは、定義があいまいになりすぎて、歴史用語としては使いたくない。美術史以外のもう一つの参考文献『日本家族制度史概説』にしても、1972年の本だし…
 本書は全6章から成り、一代で一家を成した初代正信、第二代元信、第三代の永徳をそれぞれ一章ずつ。さらに48歳で死んだ永徳以後、光信、貞信と嫡流が早世し、狩野家内部の力関係が混乱する状況。狩野探幽の時代がそれぞれ一章づつ当てられている。光信の弟、孝信の息子安信が養子となって家督を継ぐが、実力で抜きんでた探幽と惣領である安信の対立。孝信の息子、探幽、尚信、安信がそれぞれ御用絵師として家を形成する三極体制の時代に。で、最後の第六章が、その後の狩野家の展開。歴代将軍との緊密な関係、狩野派の教育方法として著名な粉本主義などが語られる。
 狩野家の内部での本家からの距離や実績によってできる序列を、建物内の部屋の格とそれをだれが担当したのかをリンクさせて、析出しているのが興味深い。そうして明らかにされた序列から、狩野家内の力関係を明らかにしている。また、初代、二代目あたりが、どのような師弟関係、人間関係から、画業を鍛えたかなども明らかになる。そのような狩野家内の秩序が江戸時代に入って弛緩し、三極体制になっていく状況。また、室町幕府や歴代の天下人に密着して、のし上がってきた動き。狩野家の展開が非常に興味深く描かれている。
 一方で、最後の第六章はいただけない。狩野派の「形骸化」について非常に批判的に議論している。将軍権力に密着し、本業の画業を進歩させることを怠ったといったイメージか。美術史についてほとんど知識のない私でも、接したことがあるステレオタイプの見方ではある。しかし、重要なのは町絵師などが多様な様式を生み出し、創造的な生産活動を繰り広げているときに、なんで狩野派は変化しないことが許されたのか。そこが問題なのではないだろうか。江戸時代も半ば以降は、将軍や大名たちも、さまざまな芸事に造形が深くなっている。その人々の間で、どう受け取られてきたのか、あるいは狩野家が養成した絵師たちはどのような役割を担ったのか。社会のなかで美術がどのような位置を占めたのか、美術品の社会史をこそ追求すべきではないのか。現在の美術のあり方からみれば不可解なありようが、どのような基盤で維持できたのかこそが興味深いと思う。19世紀の人間である岡倉天心の問題意識から一歩も出ていない歴史観では、狩野派の「形骸化」を批判する資格もないと思うのだが。


 以下、メモ:

 まさに、人間の一生のような狩野派の変遷だが、この狩野派を内部から支えたのが当時の封建制社会の秩序だった。封建制社会が存続していくためには、社会の仕組みがばらばらにならないようこれを秩序だて維持させていくのに都合のよい思想や規律がもうけられていた。この点については次のように説明される。「封建社会の支配的な意識としては何よりもこの身分意識の濃厚であることが挙げられる。家族主義・団体主義・伝統主義・格式尊重・祖法墨守形式主義もそれに伴うものである。権威を仰ぎ、これに服従するところに、秩序と道徳の基準が定められた。」といわれる。p.7

 ……江戸時代を通して社会はダイナミックに変動しているのだがな。読んでる本が古すぎる。1994年なら、歴史観もいろいろと変わっているはずなんだが。

 奥絵師の格式は旗本格である。その当主は世襲制を原則とし、帯刀が許可されていた。奥絵師のあり方や業務の内容は必ずしも解明されているわけではないが、この件について狩野家に残された古文書あるいは子孫たちの談話をもとに最も詳細な研究をおこなっているのは、明治42年に発刊された『東洋美術大観』である。ここではだいたい19世紀頃の奥絵師の勤務の様子が報告されている。
 「近代に於ける奥御用絵師の勤め方を略述せむに、御本丸の大奥に御絵部屋ありて御小納戸に御絵掛二人、御絵番御坊主十八人ありて、奥向の絵事を掌り、この御絵部屋に、毎月六回一六の日、奥絵師出仕して御用の画を作るを常とす。時に将軍こゝに出て、直ちに御好みの画を作らしむることあり。謂はゆる御席画は、奥絵師に在りては尋常の事に属す。平生は謂はゆるかきための画を作るなり。かきための画は、正月御○にて大奥の者どもに賜はり、又は進講の学者、武術の演者等に禄絵として賜はるに用ゐらる。」p.202

 非常に将軍に近いところにいる人なんだな、奥絵師って。だからこそ、将軍にかわいがられるということになるのだな。