岩崎信也『食べもの屋の昭和:30店の証言で甦る飲食店小史』

食べもの屋の昭和―30店の証言で甦る飲食店小史

食べもの屋の昭和―30店の証言で甦る飲食店小史

 東京を中心に、大坂や京都などの老舗飲食店へのインタビューをまとめたもの。89-91年にかけて雑誌に連載された記事をまとめたものに改めて現在の状況を追記している。しかし、紹介されている店を見ると、どこも結構高いな。まあ、基本外食をしないので、そのあたりの相場観がないというのもあるのだが。
 あとは戦中戦後の変化が与えた影響の大きさ。これについては、東京が特に影響が大きかったということかもしれないが。原材料の統制、砂糖や菓子など、特に嗜好品に関しての影響が大きい。さらに戦災、社会の変化。あと、江戸前の地物を材料に使っていた業種では、関東の都市化や環境の変化、全国的な海産物や畜産物の生産のあり方の変化の影響を大きく受けている。かつては「江戸のファストフード」だったはずの寿司や天ぷらが、何代も続いているような店では、高級品と化しているしな。どじょうにウナギに馬肉に川魚、どれもかつてはたいして高価でもない、庶民の日常食が、いまや結構なお値段。


 以下、メモ:

 親父さんが独立して新川に店を持ったのが、昭和六年。でも、それからすぐに戦争状態に入って、材料がなくなっちゃたりと、戦前は結構大変だったんじゃないかな。当時は店といっても、カウンターに六、七人座ればいっぱい、という程度。新川というのは花柳界でね。家は店のすぐ裏にあったから子供心にも三味線の音が聞こえてきたのを覚えてますよ。なぜか昔は、花街の近くに洋食屋があったんですね。で、お客は芸者衆とか、遊びに来た人たちです。そんな関係で、いろいろないいお客さんをつかめたんじゃないでしょうか。それからその当時は、かなり遠くまで出前を持って行ってたみたいです。出前が大事な仕事だったわけです。p.75

 洋食屋「たいめいけん」の記事から。洋食屋と花街の関係というのが興味深いな。

 いまは鯉もうなぎもほとんどが養殖ものです。江戸川で鯉やうなぎが獲れてそれを使えたというのは、かなり前のことだったんだと思いますね。戦時中、私が女学校時代に偶然、この河原の農園作業というのに来ていたんです。まさかこちらに来ることになるなんて思いもよりませんでしたけど、そのときの川がすごくきれいだったことは、いまでも覚えているんです。でも、その当時ですらもう、使えなかったんじゃないでしょうか。戦後、嫁いできてから、たまに釣った鯉を買ってほしいという方がいたんですけれども、物のないときでしたけどそれでも使いませんでした。いま、鯉は長野ですとか群馬の養魚場で育てたものを、一日おきにトラック便で送ってもらっています。うなぎは静岡産のものを毎朝。鯉は忙しいときで一日に二〇〇尾くらい使うんですけど、東京都ではいちばん多いそうです。なまずもお好きなお客さまがいらっしゃいましてね、御注文があると埼玉とか茨城の問屋に頼んでみるんですが、なかなか思うようには手に入りません。とにかく少ないらしいんです。あとは、季節によって、どじょうですとか鮎、ます、そんなところでしょうか。とにかく鯉もうなぎも、もう天然ものでは全然間に合いません。でも、こんなふうに川も汚染されてきたりしてますでしょう。そうすると魚も、養殖もののほうがかえって安心できる、ということもいえますね。p.269-270

 川魚は入手しにくくなっている様子。他に店でも、どじょうにしても、うなぎにしても、入手に苦労しているようだし。川魚、特に下流に住む川魚は、入手も難しいだろうし、今時の川だとどんなふうに汚染されているか分かったものじゃないし、たしかに養殖ものの方が安心できるわな。