高橋繁行『葬祭の日本史』

葬祭の日本史 講談社現代新書

葬祭の日本史 講談社現代新書

 現在から中世まで行きつ戻りつしつつ、葬祭に関わった人々がどのように現れ、活動してきたのかを追求する。第一章は葬送行列と近代の葬祭サービス業の出現。第二章は火葬場の話。最新の火葬場と浄土真宗地域の野焼き型火葬の習俗。第三章は、近世まで火葬・葬送を職能とした三昧聖の淵源。第四章仏教音楽の講を中心に葬送共同体の形成と葬送文化。第五章は現在に戻って湯灌やエンバーミングなどの葬祭サービスと遺体をめぐる感覚の話。関西と関東に素材が偏っているように思うが、人々がどのように死と向かい合ってきたかを明らかにしていて、非常におもしろかった。
 なんか最初は旧集落の指標としての墓地にしか興味なかったのに、だんだん深入りしているような…


 言及されているエピソードも興味深い。明治維新で失業した大名行列の人足が葬列に転用された話や木村荘平の東京博善株式会社が東京の火葬場を独占した話。
 第二章の火葬場の話。お骨上げのためにいかにきれいに焼くかを追及しているとか、副葬品が遺体を焼く上で非常に邪魔になっているとか、火葬場の職員が現在もうけている差別の話。町内会に入るのを拒否されるとか、借家の契約を一方的に解除されるとか、そういう行為を行う人間が未だにいるんだなとしか。あるいは阪神・淡路大震災の時の火葬場の対応の話も興味深い。東日本大震災で火葬が間に合わず、土葬が行われている状況と対比して。
 第三章は三昧聖を中心に議論している。大阪千日前墓地の六坊聖とその起源が行基と関わるという伝承から、古代・中世にさかのぼっての、展開。葬送を職能とする半俗の宗教者たち。行基空也との関わり。京都にいたときに空也堂って行っておくべきだったな。
 第四章の仏教音楽。上鳥羽橋上鉦講の六斎念仏や尼講。聞いてみたい。


 以下、メモ:

 当日の川上音二郎の葬列に連なった会葬者の数は約三千七百人と伝えられる。この盛大な葬列を一手に請け負った葬祭業者は、新聞では報じられていないが、当時大阪で最も有力だった「駕友」の鈴木勇太郎と考えられている。鈴木勇太郎は、大名行列様式の葬列のほか、のちに宮型霊柩車をはじめて開発するなど、明治・大正期の大坂の葬祭史に一時代を画した人物である。鈴木自身による『回顧録』にはこう書かれている。
 「我が家は延宝年代(1680年頃)より天満に本宅を置き神社、各御寺院、町奉行、与力、同心等その他諸人足の用達を営業となし、江戸に本店を設け屋号を近江屋または近友と称し、幕府各藩の参勤交代及び日々登城の五老中、若年寄等の人足を取り扱ひ元締業に従事せしも、廃藩維新に至り、父が江戸の店を閉ぢ、帰阪して典礼式事の請負を専門の営業と為したり。その後明治八年商号近江屋または近友を駕友と改称せり」
 鈴木勇太郎の「駕友」は江戸時代、大名行列の人足の元締を生業としていた。それが明治になって大名行列がなくなり失業したので、これを葬列に転用したというのである。前時代には町人階級だった者が「死後、大名行列を組み、お殿さまになった」と思わせるような演出効果の葬祭サービスが、大阪市民のなかでも富裕な階層の心を捉えたであろうことは想像に難くない。p.17-8

 遺族から報酬を得て弔いの手助けをする葬儀屋という職業の成立はいつごろのことだろうか。これまで、その歴史はそれほど古くなく、近代以降だろうと考えられてきた。その理由は、そもそも弔いは遺族ないし村や町内の互助組織が、湯灌、納棺などの儀礼から葬具作りまで手作りで行ってきたので、プロの葬祭業者が入る余地はないからというわけである。したがって近世以降、火葬や土葬を職業としてきた三昧聖(後述)は別にして、葬具や人足の貸し出しなどを行う葬儀屋が誕生するのは明治以降のことだろうとするのが普通だった。私もそのあたりだろうと見当をつけてきたのだが、近年、木下光生(日本学術振興会特別研究員)の精力的な調査によって、葬儀屋のルーツは江戸時代までさかのぼることが明らかになってきた。
 木下の「近世日本の葬送を支えた人びと」(江川温・中村生雄編『死の文化誌』昭和堂所収)によると、ビジネスとしての葬儀屋の初出は、井原西鶴の『日本永代蔵』(1688年刊行)である。
(中略)
 十八世紀初頭には、「乗物屋中」と呼ばれた葬具業者の同業者組合が形成されるようになる。木下によれば、ある大店の当主が死亡した際、喪主あてに乗物屋久兵衛なる人物が送った葬式入用代金の受け取りが残っている。そのなかには明細として、麻上下(白喪服)、遺体を納める桶、棺を乗せる乗り物、装飾品、火葬後の骨上げ用の骨桶など、ありとあらゆる葬具があり、乗物屋と呼ばれる葬具貸出業者がそろえていることがわかる。p.53-4

 「駕友」に「駕」が冠せられているように、駕籠人足業にルーツをもつ大坂の葬儀屋には、現在も、「駕清」「駕秀」などという具合に「駕」のついた業者が多い。
 このほかに、大坂の葬儀業のルーツとして、水屋と花屋が考えられる。これもまた、水屋出身者は「水作」、花屋出身者は「花重」「花義葬祭」というふうに、屋号をみればルーツがわかるようになっている。花屋が葬儀屋に転身したのは、死者が出たときまっさきに一本花を供したことからといわれる。
 他方、水屋が葬祭業に転じたのはなぜだろうか。江戸から明治時代の中頃まで、大阪市民は、淀川の水を最上の水として好んだ。そのため、木綿を張った枠を仕掛けて川水を漉し、担ぎ桶に入れて毎朝お得意先へ配る「水屋」という商売が発達した、といわれている。前述の葬祭列を保存する「平久」も、駕籠人足業をすると同時に水屋もやっていたという。津田社長によれば、「毎朝、一軒一軒水を配るから、自然、不幸ごとも耳に入るようになり、そうこうしているうちに葬儀屋になった」とのことだ。
 大阪市内に水道が完成したのは明治二十八年。このため淀川の水の需要が減り、水屋は葬祭業に専業化していったと思われる。また業界の古老は、「水屋を業とする人は下駄などを作っており、大坂の人々はそこへ箱型の棺桶を注文したものです。水屋は『鉢巻』といって、箱のぐるりを止めるようにした棺桶をつくっていました」とも証言する。p.56-7

 近代の葬祭サービス業の出自。かつては大名行列を模した葬列が行われていたのか。大きな都市だと、近世にも請負サービスは結構、需要がありそうだ。

 私ばかりの特例というわけではなかった。同斎場を訪れた見学者にも、火葬炉が使用されていないときには、依頼に応じて炉の前室まで入ってもらっているという。炉に入りたいという見学者の挙げた理由のなかで興味深いのは、「火葬炉に入ることで、のちのち長生きができる」というものだ。p.71

 逆修と関連づけて議論されている。

 施設に関連してもうひとつ、看過できない問題は、現に稼働している全国の火葬施設の実数把握である。実のところ、この大切な統計調査は遅れていた。斎苑協会の定義づけでは、稼働している火葬場とは、「建物、火葬炉、排気筒の設備を有し、年間に一体でも火葬実績のある火葬場」ということになる。厚生労働省の年次統計では、全国の火葬場数はざっと七千ヵ所を数えるが、斎苑協会の定義にあてはまる現在稼働中の火葬場は、斎苑教会の調査では約千六百ヵ所にすぎない。差し引きして残る五千ヵ所以上の火葬場施設は、現在は使用されていないか、あるいは使用不可の火葬場ということになる。それで考えられるのは、過去に全国の村々で「野焼き」がなされてきた場所が、役所の台帳の数字上に載せられてきたということである。p.81

 メモ。逆に言うと、火葬風習のデータとして使えそうだな。

阪神・淡路大震災の教訓
 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災は、死者六千四百人を出す悲惨な天災であった。このとき火葬場不足から遺体が何日も放置されたことは、いまだ記憶に新しい。そのようななかで日本環境斎苑協会は、地震発生直後から火葬場の罹災状況や稼働状況の把握に奔走した。それによって「将来、大きな災害があったときに期待される大規模広域火葬の組織化のモデルを構築することになった」と島崎理事長は言う。そこで、不幸にして亡くなった人の膨大な数の遺体に同協会がどのように関わったか、述べておこう。
 発生翌日の1月18日、厚生省から日本環境斎苑協会に、現地災害情報の有無について照会が来る。協会はしかし、「入手なし」と答えざるをえなかった。ただし、震災の二年前の93年に全国の火葬場の実態調査をしていたおかげで、被災地周辺にある火葬場の一覧表を瞬時に作成し、ファックスで回答することができた。
 1月19日、地元の火葬場の稼働状況についての情報が入る。神戸市の三つの斎場、尼崎市の一斎場は稼働しているが、芦屋は古くて使用不能、西宮の施設は無事だが、パオプラインが壊れたため燃料であるガスが供給停止となり使用不能――との報告を受ける。結果として、遺体の搬送先は高槻、池田、豊中大阪市内、京都に及んだ。
 1月20日、遺体搬送はさらに滋賀、奈良、和歌山、岡山にまで及ぶ。この窮状を見た日本環境斎苑協会の会員である大坂の炉メーカーは、「移動式仮設火葬炉」の提供を申し出た(結果的には使わなくて済んだ)。
 1月23日、厚生省生活衛生局長から同協会の島崎理事長に諮問。遺体放置による感染の危惧から、「ポートアイランドで野焼きをしてはどうか」という内容だった。とっさに、1993年に奥尻島に大きな被害をもたらした北海道南西沖大地震の経験が島崎の脳裡をかすめた。あのとき、地元の職員から「野焼きをしたいが、方法はどうすればいいのか」という問い合わせがあった。幸い、斎苑協会会員の中に長崎の原爆被災者を野焼きした経験のある人がいたので、図入りのマニュアルをつくって送ることができた。結果的には北海道知事が「野焼きなどできない」と判断を下したためにご破算になったのだが、こうした経験が念頭にあったので、島崎は「いまの情勢では神戸で野焼きを行うのは無理である」と答える。
 1月25日、島崎理事長は現地調査のために神戸入りする。神戸市内の火葬場では、棺が間に合わず板の上に乗せただけの遺体を炉に入れざるをえなかった。ところが、遺体を炉の前室に置いた瞬間、火がまわり出す。火葬炉がフル回転していたため、前室の温度が上がっていたのである。視察調査の結果、普段の火葬は一炉あたり一日平均二件弱だったのが、震災時には平均三・三件、最大で三・七件と、火葬場がフル回転していたことが明らかとなった。
 もうひとつ、このときの調査でわかった重要な点がある。神戸市の斎場は、燃料に都市ガスではなく灯油のみを使用していた。そのため西宮市にように、都市ガスのパイプラインが破壊され、稼働不能になるような目に遭わずにすんだのだった。
 27日、島崎理事長は神戸市衛生局斎園課の相談窓口を訪問、火葬状況の説明を受ける。神戸市の三斎場における震災犠牲者の火葬実績は25日までに千二百二十二体であり、31日までの火葬の予約が約九百体とのことだった。31日まであと五日ある、火葬は十分にできる見込みがついたという。
 日本環境斎苑協会の報告書は次のように結論づける。
 「阪神大震災では五千体近くの犠牲者の火葬が二週間で円滑に行われたが、これはいくつかの恵まれた条件によってもたらされたものである」
 恵まれた条件とは、時季が冬場であったので遺体保存が比較的容易であったこと、犠牲者のうち三千体以上が地元兵庫県下で火葬されたが、残る犠牲者は自衛隊の輸送力に依存するなどして隣の大阪府で九百三十七体の火葬ができたこと――などである。
 阪神大震災の教訓は、他の各地の火葬場にも活かされることになった。横浜市の北部斎場は、燃料は都市ガスだが、それとは別に二万リットルの軽油を備蓄し、都市ガスのパイプラインが破壊されればすぐに取り替えができるようにした。ちなみになぜ二万リットルなのかというと、一体あたりの火葬に要する軽油の量を七十五リットルとすれば二百六十六体分の火葬が可能との計算になる。同斎場によれば、この数は「災害時に約二日間対応できることを想定している」という。
 しかし、日本環境斎苑協会は最後に重大な警告を発している。関西にくらべ、関東は人口比の火葬炉数が極端に少ないというのだ。兵庫県は人口十万人あたりの火葬炉数は四・六基、大阪府は三・六基だが、これに対して東京は一・三、神奈川一・五基にすぎないのである。報告書は言う。
 「(関東地方の)現状の整備率のままならば、大きな混乱を招く恐れのあることが如実に現れている」p.84-7

 東日本大震災では追いつかなかったわけだが、整備率はどうだったのか。あるいはほかの要因があったのか。

 真宗仏教音楽研究所の佐々木正典氏は、「言葉だけの説教は、頭だけの宗教になります。その点、尼講衆たちは、腹の奥底から魂の叫びをしぼりだしている、これを仏教に取り戻さないかぎり、浄土教の再生はありません。親鸞聖人も、宗教を体全体で取り戻すために、音楽僧として出発したのですから」という。p.167

 音楽と宗教の関係。

 ところで、仏教という衣装をまとわない固有の民俗宗教による葬儀といえば、神式葬(神葬祭)が考えられる。神式葬の源流は、仏教伝来以前にさかのぼることができるだろう。しかし神道は死穢を忌む観念が強いため、歴史的に葬儀に関与しなかった可能性が高い。p.180

 古代の民俗宗教ではどういう風に一体化していたのだろうな、このあたり。なんか一般人はどの程度の葬儀が行われていたのやら。祖霊信仰と一体化した上層部だけ、葬儀儀礼の対象だったのかもしれないが、それもいつしか失われたのか。

 しかし私は葬祭関係者から、こうして顆粒状になった骨灰を、ゴルフ場や阪の養殖場が引き取って肥料や飼料として再利用するという話を聞いたことがある。p.237

 …………


 文献:
井上章一『霊柩車の誕生』朝日選書1990
浅香勝輔・八木澤荘一『火葬場』大明堂1983
木下光生「近世日本の葬送を支えた人びと」江川温・中村生雄編『死の文化誌』昭和堂2002
木下光生「近世葬送の実態」『SOGI』2002.3
木下光生「大坂六ヶ所墓所聖の存立構造」『ヒストリア』2000.1
浄土宗総合研究所編『葬祭仏教』ノンブル1997
上別府茂「摂州三昧聖の研究」細川涼一編『三昧聖の研究』碩文社2001
上別府茂「三昧聖と葬送」『講座・日本の民俗宗教2 仏教民俗学』弘文堂1980
五来重『葬と供養』東方出版1992
『江戸の葬送墓制』東京都文書館1999
勝田至『死者たちの中世』吉川弘文館2003
高田陽介「中世の火葬場から」五味文彦編『中世の空間を読む』吉川弘文館1995
森田康夫「多様な『情念的』賎民」大坂の部落史委員会編『大坂の部落史』解放出版社