神田千里『宗教で読む戦国時代』

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

 昨年前半に買ったが、そのまま積んでいた本。メチエ攻略作戦にかこつけて読む。
 戦国時代に宗教がどのような社会的位置を占めていたかを、具体的な状況に即して分析している。第一章はイエズス会の宣教師から見た日本の仏教。日本の宗教環境が、宣教師の目から見て意外なほどヨーロッパと似ていたという指摘。高度に発展した宗教文化と教義の流通。第二章は戦国時代の信仰の中核を占めた「天道」思想について。様々な神は仏は一体のものであるという観念から非常に一神教的に見えたらしい。この信仰の特色としては、神仏の内面的な信仰の重視、世俗的・儒教的な道徳の遵守、内面的な倫理の重視と原初的な政教分離などが指摘されている。
 後半は具体例をもとに政治と宗教の関係や宗教の社会的位置を検討している。第三章は一向一揆の実際の動きから、本願寺が基本的には世俗と宗教の住み分けを目指していたこと。政治的な抗争に巻き込まれた際に、門徒を動員しているという。信長との対立も、浅井氏や六角氏との同盟関係など関西周辺の政治状況のなかで起こったものであることが指摘されている。このあたり仁木宏『空間・公・共同体』asin:4250970213の「「権門体制」のなかの本願寺」というフレーズを連想させる。


 第四章は戦国大名や統一政権と諸教団との関係について。仏教教団が一揆の論理による自治を基本とする一方、平等な構成員による合議という運営方法は内紛を起こしやすく、そこに外部の権威が要請されたという。また、諸宗派の共存が目指され、他宗教へ攻撃的な集団が排除されたこと。法華宗が安土宗論で負けを仕組まれた事例が紹介されている。キリスト教徒が宣教師の教唆を受け、寺社の毀損などの迫害行為を行ったことが、キリスト教が統一政権から排除される理由となったと指摘されている。
 藤木久志らの議論から、近世国家が自治的な村落を前提とし、それらの自治集団間の紛争を調停する形で「公」として君臨したという見方からすると、「戦国大名の対仏教教団政策のモチーフを自治の容認」であるとする本書の議論には違和感はないな。一方で、政治的勢力としての仏教教団にたいしては、軍事力や政治的な実権の面では制限を加えているわけで、そこのところをもう少しつついてみる必要があるのではないだろうか。統一政権と仏教教団の相互関係をもっと重視すべきではないかと感じる。その観点からは、比叡山興福寺と統一政権の関係をもっと追及すべきではないかと感じた。


 第五章は天草・島原の乱を検討している。天草・島原地域では、飢饉と苛政のなかで、世界の安定という目指してキリスト教信仰への「立ち帰り」が急速に起こり、信仰の公認を求めた純然たる宗教的な性格を持つ蜂起だったことを指摘する。また、キリシタンの迫害行為に対し、諸宗派の共存と信仰は自身で選ぶべきであるとする「日本宗」の観念の形成を指摘する。
 戦国社会のなかでの宗教がどのようなものであったか、なるほどと思わされる本であった。


 以下、メモ:

 端的にいえば、先にみたフロイスといい、仏教の信仰習俗にキリスト教と共通するものを感じ取ったことは否定できないように思われる。このように見た時に、宣教師たちが報告書の中で、「悪魔」の「偽造」「欺瞞」を連発しつつ、仏教について報告していることの背景がわかってくるのではないだろうか。少なくともキリスト教の説法を聞いた日本人の聴聞者の中では、仏教と似ているとの感想をもつ者が少なくなかった。だからこそキリスト教が当初日本人に受容されたともいえる。
 五野井隆史氏の近年の研究によると、フロイスが京都に到着した1565年に、全国でわずか一万人ほどだった日本のキリシタンは、禁教令の出された1614年には37万人に達している。50年間に30倍増という急激な増加は、日本人が違和感なく受容できたということで多くが説明できるように思われるのである。p.37-8

 ということは、近代以降の日本でキリスト教がまったく普及しない背景には、歴史的展開のなかでキリスト教と日本の宗教環境に相当な差が出てきたということなのだろうか。キリスト教は当然変わっているし、日本国内でも信仰のあり方に相当違いが出てきたのだろう。その点では、近代のキリスト教が非常に儒教的な感覚で受容されたことが、注目に値するのだろうな。

足利義輝が暗殺される直前ぐらいに、フロイスを訪ねてきた美濃の国王の義兄弟がいた。キリシタンになりたいと望んだ彼は、「世界の創造」「霊魂の不滅」およびその他の事柄について、聴聞した内容のノートを取り、再び聴きに来た際に疑問点を尋ねる、というように徹底してキリスト教を学んでいたというp.47

 なんかここを読んで、古今伝授を思い出した。基本的な学問の方法が普及していたのだろうか。

 もともと日本人には平安時代くらいから神仏は一体であるとの観念は強かった。有名な本地垂迹説にもとづき個々の神は、じつはその本地である仏の化身であり、仏が日本の地に日本人にわかりやすく姿を顕したもの、すなわち垂迹である、と考えられていた。そして近年では、現実にはさまざまな名称の神仏が信仰され、崇拝されていはいたが、それらは本質的に同じものと考えられていたとの指摘がなされている。この点について佐藤弘夫氏は「それらの本地の仏・菩薩も、究極的には全宇宙を包摂するただ一つの真理(法身仏)に溶融してしまう」と考えられ、「個々の神々もみな」「本質的には同一の存在」との見方がなされていた、と指摘されている。p.58-9

 メモ。限りなく一神教だな。

 しかし、それではまごうかたなき一神教とされるキリスト教圏のヨーロッパ人の一般信徒は寛容でも曖昧でもないのであろうか。ここで興味深いのは大村英昭氏が紹介しておられるヨーロッパ人のカトリック神父ヤン・スィンゲドー氏の発言である。「日本人は、キリスト教と聞くと、どうしてもピューリタン系譜の堅い、そして一枚岩的な信仰形態を想ってしまうらしいけれど、これがまるで違うのョ。カトリックでも、もちろん修道会によってはすごく堅いところもあるけれど、少なくとも在家衆の信仰でみれば、そうネ、日本で言うと、いろいろおまじないなんかもしてる“成田さん”とか“清水さん”とか、ああいう感じが一番近いのョ」。p.68

 まあ、マリア信仰とか、聖人信仰、聖遺物信仰なんかは立派に異教的だしな。イスラム教でも、聖者を崇めるし。

 さて永正の騒乱以後も本願寺は、本山の危機はすなわち親鸞の教えの危機、という論理によって門徒を動員し、石山合戦などの一向一揆が起こっている。その意味では教団を守る戦いが行われたことは確かである。しかし一方、その門徒たちが戦った敵方が特に信仰を弾圧していたわけでないことも、同じように確かである。むしろ政治抗争に巻き込まれた本願寺教団が、抗争の中で生き残りをかけて諸国の門徒を戦場へと動員した、というほうが実態に近いように思われるが、この点をさらに見て行きたい。p.105

 メモ。そう考えると、比叡山あたりと対照できそうだな。

 大名同士の戦いの皆殺し作戦は、伊達政宗の小手森城攻めにもみられるなど、必ずしも不倶戴天の敵のみにたいするものとはいえない。むしろ敵に対するアピールとして、非妥協的な強面な対応によって敵方の動揺と分断を狙うような、作戦的要素の濃い、いわば戦術レベルのものとみた方が適切であるように思われる。事実、伊達政宗の場合、この作戦によって敵方の五ヵ所が降伏してきたことを誇っている。p.117

 へーへーへー。しかし、戦術的なもので皆殺しにされてはかなわんで。

 それではなぜ織田信長と非妥協的に対立する一向一揆像が流布しているのだろうか。先ほど「一向一揆」という言葉は江戸時代になって初めて登場するということに言及したが、上記のような一向一揆像もまた江戸時代の創作なのである。その創作の過程を要約すれば、次のようになる。17世紀になり、分立した東西本願寺派の正当性をめぐる論争の中で登場した石山合戦に関する言説が、いわゆる「石山合戦譚」すなわち門徒たちの篤信の先祖たちが本山のために戦った武勇談に大幅に取り入れられ、これが喧伝された結果、現在われわれの知る石山合戦像として定着した、ということである。p.119

 すなわち、よく知られる真宗本願寺派一向一揆法華宗門徒法華一揆に限らず、本山や寺院の動員により、門徒や檀徒が蜂起することは、戦国時代に珍しくなかった。このように見れば一向一揆が単に「一揆」「土一揆」とのみ見なされたのは当然で、他の一揆と区別する必要がなかったからである。にもかかわらず一向一揆を他の教団、寺院の一揆と区別するのは、一定のバイアスがかかった上で歴史が叙述されているからにほかならず、この点についてはすでに述べた事情があった。p.122

 なんか近世像って、全般にこの手の講談とか、その手の言説の影響を受けているよなあ。

 ここには当時の教団の事情が透けてみえる。すなわち一揆で運営された教団では、じつはしばしば一揆の決定に不満を称えるような内紛が予想されたということである。この点はこれから見て行く曹洞宗教団の内紛からも裏づけられ、先にみた真宗本願寺派のような、法主に不満のある門徒が、別の法主を擁立するという極端な形からも想像されることである。そしてそうした内紛の絶えない一揆の教団にあって、合議による掟にも、戦国大名武田信玄天皇のような「公」的権威による権威づけが必要であったことである。p.134

 先述の仁木宏『空間・公・共同体』では京都の都市の問題に即して、共同体の一揆的結合を前提として、共同体が解決できない問題を引き受ける形で「公」が形成されたと指摘している(第三章)。この教団の内紛と外部権威者の関わりも、同じような問題意識でみることができるだろう。

 イングランドのように制度化された国教が存在する国以外に、国境をもたないか、あるいは否定している国家にあっても実質上「国教」に匹敵するものが存在することはまま見られることである。アメリカの宗教学者ロバート・N・ベラーは、アメリカの制度の発展に重要な役割を果たし、現在まで政治の領域を含めたアメリカ人の社会生活の全枠組に「宗教的次元」を与え、例えば大統領の就任式でも「最高の政治的権威の宗教的正統化を再確認」する重要な儀式たらしめるような、「市民宗教」とでも呼ぶべき宗教が、アメリカ社会に存在することを指摘した。森孝一氏は「市民宗教」の表現は的確な表現ではなく、むしろ「見えざる国教」と呼ぶべきであるとされたが、筆者も森氏に倣い、政治権力に正統性を付与するこの「宗教」を「見えない国教」と呼ぶことにしたい。
 このアメリカの「見えない国教」の中核となる「全能の神」は、もちろんキリスト教の神ではあるが、ベラーの指摘するように、特定の会派の教義を基礎としたものではない。だから教義、専門の宗教者、信者を組織した教団という要素は皆無であるが、アメリカ的な物の見方の中に確立している「神」であり、政治過程にとっての超越的な目標となっているものである、とベラーはいう。周知のように合衆国憲法は国教の存在を禁止しているにもかかわらず「見えない国教」はアメリカ人の有力な観念の一つとなっている。
 フランスの歴史学者マルク・ブロックは、ナチス・ドイツに占領された祖国の解放闘争に殉じたが、そのころの「私は何故共和主義者となったか」と題する短文がある。ブロック自身が冒頭に「私が何故共和主義者であるかをたずねることは、それ自体すでに共和主義的」なことと述べているように、貴族階級の私利と外国の野心からフランス人民を守ってきた共和主義に対する信念が表明されている。
 二宮宏之氏の指摘のように「理念としての共和主義」を「ネーション・ステートによる統合の一形態である現実のフランス共和国と同一視しかねない」危険性をこれに見ることはもちろん可能であろう。だが「現実のフランス共和国」とは同一でない「共和主義」「理念」が、この歴史学者の、「現実のフランス共和国」解放闘争の基底にあったことは否定できない。とすれば、「現実のフランス共和国」と同一ではないにしても、「共和主義」「理念」がこれを離れて存続しうるものかどうかを問うてみる余地はあるように思われる。言い換えれば後者は前者の一要素であり、不可分の関係にある、いわば聖なる表象と想定することもできるのではないか。その意味では「理念としての共和主義」もまた、「見えない国教」に通じる存在と見ることもできるように思われる。
 いささか筋違いともみられかねない、上述の諸点から指摘したいのは、制度的、社会組織的な基礎なしに「見えない国教」が存在しうるという点である。国家は、じつは通常考えられているレベルをはるかに超えて、宗教的な現象なのではないか。このようなものとして、戦国時代に形成された国家の全容を解明する必要があると思われる。人間はいつの時代にもひたすら自由と私的利害の追求を神聖視して来たわけではない。自由と私的利害以上に共存・共栄と平和が、全員が共倒れにならないための私的利害の放棄が正義とみなされた局面もあり、国家の成立とは歴史のこのような局面に関わっているように思われる。そしてこのような局面で物を言うのが宗教であるとも想像できるのである。p.213-5

 普通に「イデオロギー」と言いそうだが…
 それはそれとして、フランスの「見えない国教」ってのは割と分かりやすい。「自由・平等・博愛」がそれだろうし、公的空間からの宗教の排除なんかもそのひとつの現れだろう。だからこそ、イスラム教徒のブルカが問題になる。
 しかし、あのフランスの宗教政策とイスラム教徒の関係ってのが、戦国時代のキリスト教布教と共存を国是とする統一政権の対応とダブって見えるな。宗教的自由を利用しながら、その「自由」を蚕食していくものにたいして、どのような対応をすべきか。