大城道則『ピラミッドへの道:古代エジプト文明の黎明』

ピラミッドへの道 古代エジプト文明の黎明 (講談社選書メチエ)

ピラミッドへの道 古代エジプト文明の黎明 (講談社選書メチエ)

 思った以上に読むのに時間がかかった。メチエなら、通常一日半程度なんだが、この本には3日ほどかかった。ピラミッドがどんなものなのかというのは解明できない、と何度か繰り返しているが、クリアカットな議論になっていないこと。ヒエログリフ出現以前の時代を扱うために、どうしても断片的な状況証拠の積み上げになること。読んでいる私自身が、古代エジプト史の細かいところに無知なこと。特に編年やらそれぞれの「文化」のつながりが分からないこと。それで時間がかかったのだろう。しかし、ピラミッドを扱った本なのに、階段ピラミッドまでしか扱っていないってのは、なかなか斬新。
 基本的な視角としては、古代エジプト文明の黎明期の社会や文化、宗教の状況の流れの中にピラミッドを位置づけて議論している。
 第一章「ピラミッドへのプレリュード」はエジプト文明の起源と周辺地域の交流の問題を議論している。メソポタミア、地中海、ヌビアからの影響を受けていた一方で、ピラミッド出現直前の数百年はメソポタミアとの関係が途絶えていたこと。また、エジプト文明の黎明期あたりまでは、サハラ砂漠は現在より湿潤な「緑のサハラ」であり、砂漠地帯にもそれなりに人が住んでいたこと。土器や牛の埋葬などの発掘資料の共通性から、初期のナイル川河畔の文化がサハラ砂漠や南のヌビア地域の影響を強く受けていたことを指摘する。
 第二章「ピラミッドの萌生期」は先王朝時代から第二王朝時代までの、特に王の埋葬施設の変遷から、ピラミッドへとつながる流れを追及している。マスタバ墓→巨大マスタバ墓から改築されたネチェリケト王の階段ピラミッド→第四王朝スネフェル王時代に屈折ピラミッドから真正ピラミッドへという単線的な発展論を脇に除けて、第一王朝から第二王朝時代に墓とは別に建設された「葬祭周壁」に注目し、祭祀施設としてのそれが、ネチェリケト王の階段ピラミッドを含む複合体、さらに後の時代の「ピラミッド・コンプレックス」へと引き継がれたのではないかと指摘する。
 第三章「ピラミッドができるまで」は第一王朝から第二王朝の時代を、さまざまな手がかりから再構成しようと試みる。この時代の王権はまだ安定したものではなく、さまざまな有力集団が対抗していた状況を指摘する。特に第二王朝のサッカラからアビドスへの葬送地の変更、ペルイブセン王のホルス名からセト名への改名などから、混乱ないし対立があったことを指摘する。
 第四章「ピラミッド時代の到来」は第三王朝の開祖ネチェリケト王の階段ピラミッド複合体を解剖している。階段ピラミッドだけでなく、さまざまな施設が存在し、それらが埋められていたという。また、地下には複雑な通路が存在する。この時代以降、王権が安定した可能性が指摘される。
 第五章は「ピラミッドとは何か?」は結局、結論が避けられているが、ピラミッドをめぐる謎を指摘し、フォン・デニケンの「宇宙人建造説」やピラミッドがオリオン座をなぞらえて作られたなどの異説の紹介など。ピラミッドの中から遺体が発見されていない状況から、「王のためのピラミッドとは、内部に王の遺体のないものだ」と理解すべきだと主張する。
 全体を通してのモチーフがいまいち理解できていないのだが、こんな感じだろうか。まとまった文章が存在しない中で、出土品からイデオロギーや宗教、思想を理解しようとするのは、非常に難しいことなのだなとは感じる。あと、少なくとも、エジプトの王権のイデオロギーの発展の流れの中にあるということか。派手に見えるが、歴史の文脈に位置づけることはできると。


 以下、メモ:

 古代エジプトの文化形成期に「東方からの刺激」という言葉が使用されることがある。これは明らかにメソポタミアからの強力な文化的影響を指しているが、本章でこれまでに議論してきたように、何も東方世界からの影響だけが古代エジプト文明の形成に刺激を与えた存在ではない。上述したように、南方のヌビアと西方のオアシス地域・砂漠地域からの情報の流れも重要視すべきである。さらにヌビアは中エジプトのアシュートに端を発し、エジプト西方砂漠のオアシス地域を縦に走るダルブ・エル=アルバイーン(四十日路)によって、さらにその先の南のニジェール川までたどり着いている。
 ニジェール川は西アフリカのマリ共和国やナイジェリアを流れ、ギニア湾に注ぐアフリカ大陸を代表する大河である。北アフリカ地域との交易拠点であった黄金の町トンブクトゥニジェール川の傍に造られ繁栄した町であった。ダルブ・エル=アルバイーンの存在は、西のオアシス地域がヌビア、あるいはそれより南方のアフリカ大陸内陸部とも直接繋がっていた点を示唆している。南方からやって来てエジプト西方砂漠のオアシス地域において溜まった情報は、容器から水が溢れるかのごとくナイル河谷へと流入したのである。p.61

 現段階で時代的なバラつき(BP7000-BP2500年)、地理的なバラつき(エジプト-ニジェール)に意味を与えてヌビアを含む北アフリカにおける牛の埋葬の伝播論を展開することは難しい。しかしながら、少なくともナブタ・プラヤにおけるいくつかの牛の埋葬は、環状列石などの儀礼施設を思わせるものに伴っている。このことは現在不毛のサハラ砂漠と化してしまった北アフリカ地域における牛の重要性だけでなく、当該社会における階層化の始まりや新しい価値観=儀礼の発生を指し示しているのかもしれない。古代エジプトにおいて死者の神、死した王であるオシリス神が「西方の牡牛」という別名を持つ点も再考の余地があろう。
 以上のような古代エジプトを含むサハラ世界と牛との関係、あるいはその残存現象かもしれない現代アフリカの複数の部族間に見られる牛への厚遇に対する指摘は、ナイル河谷とエジプト西方砂漠地域や南方との密接な繋がりを補足しているかもしれないが、現時点において直接的な繋がりを実証してはいない。
 しかしながら、牡牛は早期から古代エジプト王権と密接な繋がりがあったことは、王の衣装に付属した牡牛の尾やナルメル王の奉献用パレットに描かれた王の化身としての牡牛の図像などから明らかである。巨大な角には不滅の生命力が宿り、邪悪なものを祓う力があると信じられてきた。だからこそ古代エジプト人たちは、マスタバ墓の周壁の下の台座に牡牛の角と泥で作られた頭部を飾ったのであろう。またナイル河谷においてピラミッドが出現する以前に、ナプタ・プラヤやその他の地域に比較的大きな石造建造物があったという事実は認めざるを得ない。後の時代にナイル河谷において真正ピラミッドとして結実する古代エジプトの巨石文化の起源とその政策の際に利用された天文学的知識・測量技術の源は、ナイル河谷から見て西方・南方のサハラ世界にあるのかもしれない。p.72-3

 内陸アフリカとの関係。現在のサハラ砂漠の状況を見ると、なかなかそのあたりの流れが想像しにくいし、ナイル川地域は孤立した地域と理解してしまうが。

 いずれにせよお、国王や天皇という血統に基づいた絶対的存在として当時の人々に認知され、後の時代に記録として資料の中に現れる人物のみが、その時代その場所で実際に権力を振るった支配者というわけでもないことは人類の歴史が証明している。王朝開闢初期の時期には異なった伝統を持つ二つの、あるいは複数の集団の間で権力が行き来し、それが墓の規模や場所の違いとなってわれわれの前に現れているのである。p.113

 このあたりのイデオロギーで塗りつぶされちゃう「実情」ってのは難しい。

 また時代的・地理的に近い例としてはヒッタイトの習慣が知られている。ヒッタイトでは祝宴において、王が清められた自らの手でパンを様々な形に千切り食す例が知られている。その際、パンは鳥・牛・豚などの動物だけではなく、手や指、あるいは舌など人間の身体の一部を模られた。王はそれらのパンを口にすることにより、「神を呑み込む」と考えられていたのである。この聖なる行為により、ヒッタイト王は神と一体化すると考えられていた。これらの行為は、ヒッタイトにおいて本来行われていたカニバリズム的行為から置き換わった習慣であるのかもしれない。地上に存在するものすべてに生命や意識があるとは考えないが、それらすべてのものに人間が積極的に生命や意識を与えることはできるのである。このような動物崇拝の中のアニミズム、あるいはトーテミズムに古代エジプト王権、そしてその象徴であるピラミッドを理解する手掛かりがあるのかもしれない。p.149

 メモ。

 古代世界の王権保持に大きな役割をもあたらす金と銅という二つの鉱物資源の確保は、エジプトのネチェリケト王というたった一人の個人に人類史が始まって以来の極端な富の集中現象を生み出した。この一種の鉱物資源バブルが巨大石造建造物であるサッカラの階段ピラミッド建設の根底にあったのである。経済学者ジョン・M・ケインズが述べているように、「古代エジプトの繁栄は、ピラミッド建設と貴金属の搾取にその原因を追っている」のである。突如として手にした有り余る富を消費するためにネチェリケト王は、サッカラに巨大な階段ピラミッドを建設したと考えられないだろうか。p.177-8

 ふーむ。