小林一郎『風景の中の橋:フランス石橋紀行』槇書房 1998

 ISBNが付いていないので、自費出版的な書物なのだろう。熊大の建築か土木分野の教授が書いたもの。熊本市内のブックオフではよく見かけるけど、県外では入手可能性はどうなのだろうか。ずいぶん前から積んでた本だがやっと撃破。
 内容はタイトルの如く。第一章が石橋の部分の名称や時代区分などの総説。第二章はフランスの文化財保護制度の中での橋の位置や実際に使用される物としての橋がどのように保存されてているか。景観の保全・維持と関連して議論されている。第三章は残りの半分弱を占め、著者が訪れた橋を紹介している。河川の流れ方が違うとはいえ、長い間使われた橋がカジュアルに残っていて、良い風景が残る。ローマ時代の水道橋や教会・塔が上に乗っている橋、可動橋や運河橋などなど。


 文化財としての橋を扱った第二章「国宝としての橋」が興味深い。保存の在り方としては、普通に使用、通航制限、立ち入りは可、使用も立ち入りも禁止、撤去しても同じような形状の橋を再建するといったパターンがあるそうだ。四番目の使用も立ち入りも禁止のパターンで紹介されているカンス川のつり橋の事例では、荒廃した状態で放置されているような状況だが、機が熟すまで待つという考え方なのだそうだ。
 第二章の後半は生活の中での文化財、景観をいかに維持するかと言った観点から、交通量の増加などで拡幅が必要な場合にどのような対処がなされているかを、1ファサード保存、2石造アーチ橋の併設、3煉瓦アーチ橋の併設、4鋼アーチ橋の併設、5RCアーチ橋の併設、6スラブ上載方式、7桁橋の増設、8上部架橋方式と整理し、熊本の石橋の事例と比較している。フランスではデザインの一貫性というか、すっきりとデザインをするために、拡幅した場合には、管類は床版内に埋設し、コンクリート製の張り出しなどは化粧板で覆うなどの対応をとっているが、個人的には後から付加したものは、外に雑然と出ている方が、歴史的経緯を表現していていいのではないかと感じる。このあたりは、デザインセンスや景観への考え方にもよるのだろうけど、下手に手を加えるよりは、むき出しに付加して、元の石橋には手を加えない方が好ましいと感じる。そういう意味では、あまり好意的に紹介されていないバニョル橋の事例は、併設されたコンクリートの桁橋があまりに無造作であることを除けば、それほど悪く感じない。

 少なくともファサード保存は最悪だと思う。どんなに元の物にそっくりだとしても。


 第三章は、著者が訪れたさまざまな石橋が紹介されていて楽しい。味がある橋がたくさんあるんだな。個人的にはラングドッグのセトという港町にある可動橋が一番気に入った。かっこよすぎ。

 あとは3.14の「なぜ壊さないのですか?」という節で、破損した石橋がそのまま残されている状況が興味深い。水害に備えて河川流量を確保するために、河川内になるべく障害物を残さないという思想の日本とは、河川や文化財に対する感覚がだいぶん異なるのだなと感じる。


 以下、メモ:

 この詩は、当時まだ無名に近かった詩人と既に流行の女流画家であったマリー・ローランサンとの恋をテーマにしているのだそうですが、詩の内容をよく読んでみますと大変面白いことに気付きます。橋は二人の絆の象徴です。しかし、フランス人ならこの近代の橋のなかに「壊れやすいもの」「はかないもの」を読みとることでしょう。また、近代の都会で生きる者の中にある、無機質で孤独な心のあり様を直感的に感じることができるはずです。つなぎ合った手と手は鉄の橋と同じようにいつの日か壊れ去らなければならないことをフランスの読者は最初の一行で理解します。そして、変わらずのあるもの、あるいは、むなしく過ぎ去るもの(時間)の象徴であるセーヌの流れを前に詩人だけが取り残されるであろうことが予見できるのです。なぜなら、近代の鉄の橋は一時期よく「落ちるもの」であったからです。
 この様な「鉄の近代橋が壊れやすいもの」というイメージは、私たち日本人には少し理解できないところがあります。私たちは「鉄は国家なり」と教えられたものです。これに対して、18世紀の終わりに始まったヨーロッパの工業化の時代において、土木技術者は鉄の構造物の創生期に多くの挑戦的な橋を架けてきました。しかし、その中のいくつかは工事の途中で、別のいくつかは使用中に桁が落ちる大事故を起こしています。p.8-9

 アポリネールの「ミラボー橋」からはじまって、鉄の橋のイメージの違い。まあ、鉄の橋は日本でも100年くらいで架け替えているくらいだから、それほど耐久力のあるものではないのかもな。木の橋よりは強いとはいえ。

 1.2でカタカナ語のわかりにくさについて触れました。ここでは、私たちが日頃使っている橋に関するいくつかの日本語について考えてみましょう。橋の景観設計、あるいは橋のシビック・デザインという言葉があります。これらの意味は何となくわかるのですが、やはり私たちにはなじみのない用語ではないでしょうか。フランス語や英語では「橋のエステティク」という言い方をします。女性の、「エステ・サロン」のエステと同じものですが、極めて日常的なこの単語が日本語にはうまく訳せません。「美しさに関する考え方」ということのようですが、何か良い訳語はないものでしょうか。しかも、その「美しさ」は芸術作品のおける美や美学といった類の世界のものではなく、人々の日常における「趣味の良さ」や「品の良さ」のことなのです。つまりエステティクとは「あの女性はよい趣味をしている」とか「あの橋は実に素敵だ」とかいった感想の根本的な理由は何であるかを考え、うまく説明し、それをよりよく再現して見せることなのです。p.66-7

 訳するというのは難しいな。しかし、「景観設計」を「品の良いこと」や「趣味の良いこと」と考えると、どのようなものかイメージしやすくなるな。今の日本では「品の良いこと」の共通理解も失われているような気がするが。

 もちろん、橋は芸術作品ではありません。そうあってはならないと思っています。しかし、「他人とは違うけれども、趣味の良い物」を生み出すためには人よりも半歩位は先を行っていなければならないと思います。私はここでは創造者としてのフランス人を論じるつもりはありません。反対に創造者達の生み出したものを、ある時は受け入れ、ある時は批評してきたフランスの市民の、「物を見る目」の確かさがどこから来るのか知りたかったのです。大切なのは一部の天才的な人間の存在ではなく、天才的な人物を鍛え、育んできた数多くの普通の人々の存在です。普通の人々が「他人とは違うけれども趣味の良い物」を好むということです。しかも彼らの考え方は、「個性を重んじること」と「伝統的な考えや土地の歴史や文化を大切にすること」とが矛盾しないのです。p.166-7

 その社会の全般的な鑑識眼が、いろいろな所に影響するよな。そう考えると、景観的に貧しい郊外住宅地で育った人間が多数を占める日本ではどうなることやら。