戸谷理衣奈『下着の誕生:ヴィクトリア朝の社会史』

 ヴィクトリア朝時代に起こった女性の身体をめぐる心性の変化を、女性雑誌を素材に明らかにし、現在のような下着の「楽しみ方」がどのように形成されたのかを明らかにしている。19世紀の後半、女性の外出、旅行の普及、家庭内への暖房器具・風呂・照明器具の導入といった社会の変化にともなって、身体観が変化する。「美」に内面が重視される世界から、外面が評価の基準となる世界。服を込みでの全身像「フィギュア」から、肉体や素肌といった「ボディ」を美の基準とするようになる、価値意識の変化。これに伴って、スカートを広げるクリノリンや体を締め付けるコルセットから、自然な体を重視する現在につながる美意識へと変わっていく。このような価値意識の変化を、女性雑誌の投稿や記事、広告などから跡づけていく。
 話の筋も分かりやすいし、心性史を非常に明確に跡づけていると思う。ただ、難を言えば、海外の同時代との相互作用が明らかにできないと、この問題は完結しないのではないだろうかと思う。ヨーロッパの思想や文化の歴史をやる時に常に苦労するところではあるが、それぞれの国が相互作用を与えあっているが、それを明らかにするには複数の言語が必須になってしまうという。本書でも、パリのファッションのモードがイギリスに影響を与えている状況や、ドイツ・北欧からの健康についての科学的見解の導入などが指摘されている。同時にイギリスがそれらに与えた影響や、同時代にそれぞれがどういう歩調であったのか。そのあたりの分析も必要になってくるのではないだろうか。かなりの無理難題な意見ではあるのだが。
 あと、これって中産階級以上の感覚を明らかにしているわけだが、そもそも人口の大半を占める労働者階級・農民たちの身体・身体感覚はどうだったのか。これまた、明らかにするのはかなり難しいが、そこも気になるところ。同時に、身体感覚やファッションの変化に盛んに保守派が批判を繰り返しているが、その主張のこっけいさ。いまでも、この手のやかましい人間は存在するわけだが、人間の関係や感覚は変動する、その中で「現在」を基準とした批判は意味がないというのがよく分かる。


 以下、章ごとにまとめ。
 第一章は、1860年代まで。ヴィクトリア朝のモラルとクリノリンの盛衰。ヴィクトリア朝のモラルは、「良妻賢母」としての「女性らしさ」の強調と肌や体のラインの露出を徹底的に否定するところに特徴がある。また、女性の服は非常に重かった。女性はそもそも外出をほとんどしなかった。これが、鉄道の普及によって、女性が移動するようになり、それに適した金属製のクリノリンが出現する。このクリノリンはファッションの先鋭化と消費社会の進展の中で巨大化の道を進み、盛んな反対運動を引き起こす。このクリノリンは1867年あたりからクリノリンをつけないスカートが現れ、クリノリンは流行から外れ、急速に衰退する。このあたりのファッションの流行の論理のパワーとやかまし方の無力さが実に面白い。この時代から「いまどきの女の子」なんて形容があったのだな。
 第二章は1870年代。コルセットをきつく締める「タイト・レイシング」とハイヒールをめぐって。細いウェストの追求とそれが健康に悪影響を与える状況、そこからのコルセット批判。タイト・レイシングが女性の身体のラインを強調するものであり、その点ではむしろ女性の身体的な解放の現れであると指摘する。男性側からは嫌悪感を示す投稿が多く、「女性独自の価値観によって展開された美容戦争の一環として理解できる一面がある(p.65)」と指摘する。また、コルセットという下着が公開の場で語られるようになるというようにモラルの変容をもたらしたものであり、「美意識が身体へと向かったという点で、現代的な美意識の形成を予告した出来事(p.70)」であったと指摘する。
 このような美意識の変化をもたらした要因をいくつかに分けて議論している。「視線」の重要性が指摘される。中流階級以上の女性が公共の場に外出するようになり、見知らぬ他人の視線をうけるなかで自意識が高まり、その結果外見の美が内面とは独立した価値を持つようになったこと。また、鏡税撤廃によって大型の鏡が普及し、自身を客体化するようになったこと。写真が出現しブロマイドが普及すると、ファッション・リーダーが出現し、美の基準が生まれるようになった。同時に、この時代には不況下で中上流階級の女性が相応の相手を見つけるのが難しくなり、男女の接触が難しいなかで、外観はアピールとして重要だったことや皇太子時代のエドワード7世の行動などの社会的要件も指摘されている。
 第三章も同時代。健康やスポーツをめぐる言説や旅行の影響。女性の健康悪化の中で外気への接触が推奨され、ハイキングや海水浴が普及する。この状況で、女性は動きやすい服やさらなる身体の露出が進む。さらに野外で気象の変化に対応するためにコートが普及し、服の快適性の問題も重要になってくる。海外の旅行は、普段のモラルからの解放をもたらし、モラルの束縛を掘り崩す。また海外のエキゾチックな雰囲気が広告に利用され、肌もあらわな女性のイラストが広告に用いられるなど、この点でもモラルの解体の方向性が見られる。「距離の魔法」という指摘が興味深い。
 第四章は1880年代。「服装改革運動」を扱う。タイト・レイシングが女性の健康を害するなかで、社会ダーウィニズム帝国主義の国力維持の観点から女性の健康問題が「種の存続問題」とされるようになり、合理的な服が問題にされるようになる。また、「皮膚呼吸理論」や外気へのこだわりといった医学的な言説が、ウールの下着の爆発的な普及をもたらしたこと。その結果、薄く温かく、通気の良い下着によって、ギリシア・ローマ風などより多彩なファッションが可能になった。また、自然な身体のラインに基づいたギリシア風の衣装の普及が可能になった結果、小顔というか、髪を結いあげない頭全体が小さいことが目指されるようになった。「現代の頭が小さくほっそりした均整のとれたプロポーションへの憧れも、その原点にはこうしたギリシア礼賛にはじまる美意識の変化が存在しているのである(p.169)」と指摘する。
 第五章は1890年代。ヴィクトリア朝の厳しいモラルが緩んだ世代の子供世代には、国家的要請や社会ダーウィニズムの「種の保存」といった観点から、体育教育が施され、さらに「科学的服装」として締めつけのない服が与えられるようになる。また、中上流階級の女性の結婚難が自活を要請する。また、自転車の普及によって、女性は社会的な拘束から自由になることができるようになった。その結果、身体それ自体の美しさを追求するなか、「健康美」「痩身」というキーワードが重要になってくる。
 第六章は、本書が扱う時代全般で、女性の下着が急激にフリルやレースをあしらった装飾的なものになった要因を扱っている。これには、光熱機器、携帯型ストーブや風呂、照明の普及が要因としてあると指摘する。ストーブのないときには、寝室は非常に寒く厚着をする必要があった。これが暖房によって薄い服装を楽しむことができるようになった。また、国家的要請による健康の増進は入浴の習慣を推奨したが、その結果、「入浴によって長いバスタブに沈んでいる自身の身体をゆっくりと目にするようになった(p.213)」。照明も、そのような自身を視線にさらす効果をもたらした。この結果、下着や室内着の装飾化が進んだと指摘する。
 このような物理的、心性的な変化によって、女性の身体は解放され、フィギュアからボディへと美意識の対象が変わったと指摘する。


 以下、メモ:

 図のような、タイト・レイシングによる骨格や内臓のゆがみを描いたイラストは当時さまざまなメディアに掲載されている。女性誌でも、ファッションの記事を掲載する一方で、積極的にこうした医師の意見も取り上げているのだが、「ファッションによる専制」という言葉が多用されているように、良識ある人々の意見はファッショナブルに生きたいと願う女性たちに黙殺されてしまった。p.61

 「ファッションによる専制」というのが興味深いな。現在でも、中国製の確実に健康を害すダイエット薬を飲む女性がいるわけだしな。

 そして、この時期にイギリス人が旅した国々とはすべて放縦な「南のモラル」の国々なのであった。すでに述べたとおり、パリは一面で不道徳な「悪徳の都市」として、スペインの女性は放縦さで知られていた。
 そのため、歴史家ジョン・ペンブルの言葉を借りれば「当時、旅行は軽々しくすべきものではなかった。正当な理由が必要であり、とくに南欧に行く場合にはそうだった。気候がよくなるにつれ、道徳は落ちていくと一般に考えられていたからである」。
 当時の社会批評家ジョン・ラスキンもまた北の種族の勤勉さと寒い気候を関連づけ、「南の種族の無気力」と対比させている。またある医師がイギリス人の長所の多くが気候によるものだと断言していたように、南への旅行は国民性をも堕落させる危機だとも考えられていた。そこで旅行者は、「もったいぶった目的を唱えて自分たちを免罪しようとした。(中略)彼らは釈明し、そのおもな目的は巡礼、文化、そして健康のためだと言うのだった」。
 女性誌の小説にも同様の状況が設定されている。「彼は健康を理由にしてイタリアに来ていたが、本当のところはさる女を捜しにきたのだ」。このように、旅行ブームの背景には「南国の空気は健康によい」といった、空気と密接に関連した健康にまつわる言説が存在した。
 しかし、ペンブルが強調しているように、国外への旅行には、太陽の日差しと暖かな空気のもとに流れる怠惰な時間、ゆるやかなモラルのなかでの完全な解放感の希求という「隠された動機」が常に存在したのである。実際、イギリスの人々が旅先で羽目をはずしている記録は多数残っている。たとえばパリでは、イギリスの人々は「うるさい世間の目を捨ててきたという意識から、羽目をはずす」、「リボリ通りの芸術ヌードショーの主要な客になる」などと書かれて問題視されていたのである。p.115-6

 なんか人間ってのは変わらないねえ。共同体的な規制が強いほど、国外旅行で無茶苦茶やるのかもな。

 「衣装は人をつくる」と古くから言われ、社会的役割に応じた衣装を人が着るという点に見られるように、衣装は人の意識を多分に規定する。イギリスの女性たちは商品とともに眼にみえぬムードを買い、異国のモラルを肌に纏い始めたのである。p.122


 ヨーロッパの絹は「かつて絹といえばひとりで立ち上がって歩き出しそうなくらい固かったものだ」との記述があるほど固く、ヴィクトリア朝の化学染料(アニリン染料)はけばけばしい色彩しか作り出さず、およそ芸術家が好む繊細な色合いには向かなかったのである。p.139


 ウールに狂奔したのは当時の著名人たちも例外ではない。なかでも劇作家ジョージ・バーナード・ショーは熱烈なイェーガーの信奉者であった。かれは「全身を偏りなくウールであたためる」という、イェーガー博士の説そのままに、下着のみならずウール製のボディスーツのような服すら着用していた。
 彼の伝記を書いたフランク・ハリスは、一時期のショーの姿を次のように描写している。


(ショーは)健康に理想的な、茶色の無漂白ウールでできた、袖から足首まですっぽりと覆った一枚の服、すなわちコンビネーション風の服を着ていた。その姿は、毛糸のストッキングを穿いた先の割れた大根以外の何物でもなかった。


 その後も彼は1910年くらいまで、無漂白ウールでできた半ズボンにストッキングという、この風変わりなコンビネーションにかわって、イェーガー博士が日常生活上許容するスタイルに固執していた。そのことを示す写真は何枚も現存している。ショーはのちになって「あのころイェーガーはなんともひどいことを言っていたものだ!」と怒っていたらしい。p.157-8

 ちょwwww伝記作者ひどすwwwwww
 後から怒っていたというのがまた笑いをさそうw