新町橋から大慈禅寺へ

 昨日の続き。船着き場跡から、前の道を東に歩く。旧国道に出て南下。新町橋で加瀬川を渡り、途中の小道を右に曲がって、大慈禅寺道を歩く。なんか古いまち並みでも残っているかと思ったら、なにもないでやんの。ただ、暑いだけだった。この道で体力を吸い取られる。国道3号線を渡って、大慈禅寺へ。

薩摩街道




 もともとは西側にそれる道が薩摩街道だったらしい。その後、橋の架け替えによって、現在のルートに変わったようだ。ちゃんと、木碑の内容を読んでおけば良かったな。つーか、薩摩街道を調査した地図をコピーしたはずなんだけど見つからない。どこに埋まっているんだか。

新町橋南詰のお堂







 橋の架け替えに伴っていろいろと移設されたようだ。あと、石造物の年紀を見ると、戦時中に整備された様子。しかし、この砲弾型の水神さまはどうなんだろうな。昭和16年につくられたようで、「時局」を反映しているのだろうけど。むしろ卑猥な感じが… 旗竿の根元には、「皇紀二千六百年記念」の文字が。

「勅願所大慈禅寺道」碑



 かつての参道だったと思われるのだが、それにしては何もない道。もとは周辺水田だったのではないかと思われる。とりあえず、ここに石碑があるということは、昔からある道だったはずなのだが。

大慈禅寺



 こんな調子で、ひたすら日蔭のない道が続くのは、苦痛だった。ここで体力を吸い取られたような気がする。

大慈禅寺前の墓地



 大慈禅寺の周辺には、墓地が広がっている。このうち、大慈禅寺道沿いの墓地は、古い墓をうらに片づけて、新たに墓地を売りだしていた。裏の方に片づけられた墓石を観察すると、丸い無縫塔型と尖頭方柱形式が、江戸時代の末期に併存していたように見受けられる。無縫塔の方は戒名や年紀の彫りが浅くて、読めないのが多いが、文化年間の墓石が存在した。他方、尖頭方柱も、江戸時代後期から明治・大正までの年紀が見られた。江戸時代の後期、19世紀には二つの形式が併存していたということになるが、だとすればこの形式の使い分けは何が原因で行われたのだろうか。つーか、無縫塔形式の墓自体、他ではあまり見ないような。

大慈禅寺境内

 この頃にはかなりへろへろであまり見ていない。境内はお墓がたくさん。というか、川尻のお寺は境内にお墓が多い。都市型の寺院というか。


  • 山門


 1720年に建てられたものだそうだ。中世から続く古刹だが、明治頭の廃仏毀釈で衰退して、古い建物はあまり残っていないらしい。

  • 境内の石橋





  • 仏殿


 中にでかい仏様があったが、仏像って鑑賞の仕方が分からないんだよな。

  • 鐘楼


 建物は昭和61年築のものだが、梵鐘は弘安10(1287)年製の国指定重要文化財

  • 何か良く分からない石造物


 仏殿と法堂のあいだの中庭にあった正体不明の石造物。文字は刻まれていないか、磨滅したか、読めず。