更に続き。これで最後。川尻の記念碑類。
「懐徳碑」
川尻公会堂を寄贈した吉村彦太郎氏を顕彰した碑。瑞鷹酒造の元社長。ほかにも、公職を歴任したり、地方名望家らしい人物だったようだな。文章が漢文的で、篆刻か何かの字体なので、一部読めないところが。判読できなかったところは○としてある。
前面
懐徳碑
吉村彦太郎翁は明治二年二月三日川尻町に生れ昭和五年
九月十二日天寿を以て逝く翁資性温厚にして寡黙早歳箕
裘を継ぎて醸酒の業に従い勤倹力行克く産を治め夙に仏
道に帰依して慈悲の念深く公共の為に資財を喜捨するこ
と枚挙に遑あらず又町会議員学務委員等の公職に挙げら
れて尽瘁し徳望郷閭に普し客秋病革り自ら起つ能はざる
を知るや更に鉅貨を抛ちて教育衛生及び社会文化の発達
に資し我町百年の大計を樹つ川尻町公会堂の成る亦一に
翁の賜なり蓋翁の如きは富は屋を潤し徳は身を潤すの士
と謂ふ可き哉町民○徳を懐ひて忘るる能はず茲に碑を建
て其由を勒して永く後毘に伝ふと云ふ
後藤是山撰
大谷実之書
後面
昭和六歳次辛未年十二月二十日建之
飽託郡川尻町
博多
鋳造主磯野七平支店
鋳師吉屋徳夫
「築堤記念碑」
大正四年の建立。周りに蜘蛛の巣が多くて、とってもメモをとれるような環境ではなかった。裏側は写真を拡大すればある程度判読できるが、文字数が多いため今回はパス。
追記:後面碑文を書き起こしてみた。碑文の下の方は植物の葉で隠されていて読めない。
川尻町字外城ハ加勢川ノ右岸ニ湊シ在来ハ専ラ北側ノ防備ニ上リ南側ハ全ク堤防ノ設備ナキ為メ一朝洪水ヲ発セバ河水膨○シ
テ人家漲溢シ余勢尚付近村落ニ氾濫シ渺々の澎水ノ観ヲ為ス○ノ年々相踵キ被害少カラス時ノ理事者大ニ之ヲ憂ヒ縷々官に開
陳シ築堤ノ急ヲ訴ヘ遂ニ容ルゝ所トナレリ然ルニ本工事ハ初メ川尻町単独ノ主張ナリシモ被害区域関係上更ニ飽託郡出水村○
七ヶ町村水害予防組合事業トシテ施設スルコトトナリ該組合管理者タル飽田託麻宇土郡長持永義方は組合会○○○○経テ(明)治
二十四年四月ヲ以テ工事ヲ起シ郡書記竹内軍治ヲ工事主任ニ命シ組合議員永井弾造瀬崎三郎河野忠次郎内藤○○○○喜又○五
名ヲ工事委員ニ挙ケ川尻町長小山豊熊ヲ監督ニシテ専ラ斡旋セシメタリ此間偶々隣接村ノ芳情起リ之ニテ○○ス○○煩○○○
○○ヲス時漸ク梅雨ノ季節ニ薄(せま)リ之レヲ速成セシムルニ非レバ防御未タ成サルニ害先ツ至ルノ虞(おそれ)アリ [以下、見えず]
励シ之ヲ経シ之ヲ営シ日ナラスシテ竣功セシメタルハ理事者ノ功大ナリト云ハサル可カラス其築造セシ○○ハ [以下、見えず]
二百四間四合工費全二千四百十五円余ヲ要シタリ蓋シ工事程度ニ比シ経費金額ノ僅少ナルハ当時ノ物価 [以下、見えず]
賃金僅カニ十二銭ナルヲ其一般ヲ窺知スルニ足ラム尚経費中ニ下流ノ中緑護藤銭塘奥古閑川口ノ [以下、見えず]
寄附セラレタルハ交誼ノ厚キヲ謝スル処ナリ又事情アリテ○キノ築堤ニ漏レタル五十余間ハ旧来ノ侭ニテ○○水害区域ヲ脱○
サルヲ憂ヒ時ノ管理者郡長三浦喜伝ハ更ニ築堤シテ上下既設ノ堤防ニ接続セシタ以テ一帯ノ堤防トナシ○○○水害テ○○○
○○○当該組合ニ諮リ其筋ノ許可ヲ得タル尓○後任管理者郡長村長村上則貞田中○知相継テ処理セラル大正二年○二月起○○王三
年五月竣工ス工費金五千九百三十五円余ヲ要セリ工事ハ郡書記竹内軍治組合技手川上茂組合書記中川米蔵組合○議員(永井)弾造
大野○原田隅一郎岡本卯八神沢綾太磨井八百八岡常作委員トナリ家事ヲ抛チ其衝ニ当リ当初ノ目的(ヲ)遂行シ終○○嗚呼○○○
○の大工事モ茲ニ有終ノ美を齎ス(もたらす)ニ至レルハ被害地ノ斉シク(ひとしく)満足スル処ニシテ将来洪水ニ際シ堵ニ安ンスル事ヲ得ルハ理事者
経営ノ賜ニシテ永ク其余沢ニ浴スル事ヲ疑ス茲ニ顛末ヲ録シ勲績を表彰スル云○ 加勢川緑川水害予防組合
大正四年七月 日
「日露戦役紀念碑」
年紀は書いてなかった。まあ、日露戦争からそう時間がたっていない時期に建てられたものと推測できるが。大久保春野(Wikipedia)の記述からすれば、1906-8年の間。おそらくは1906年だと思われる。
前面
日露戦役紀念碑
陸軍中将従三位勲一等大久保春野書
下段
飽託郡川尻町建之
「勅願所大慈禅寺道」碑
大慈禅寺への参道の入り口の碑。1799年からあった石碑を、1985年に建て替えたもののようだ。寛政11年の時点で、500年経っているってのがすごいな。
右面
維時昭和六十年三月十四日吉祥
法堂落慶記念後刻再建九十六世泰嶺雄代
後面
寛政十一歳次巳未○八月念一日○
開祖禅師五百年現住大然敬建焉
「道路拡張記念碑」
写真を見直していて気付いたが、下の方に何か銘文があるな。全然気がつかなかった。どれだけ、脳みそが茹っていたかが、改めて分かるな。あと、位置も微妙に怪しい気がするが、ここはカメラの記録に従っておく。
「川尻小学校創設の地」碑
法宣寺の山門横に建てられている石碑。横に銘文が刻まれているが、ここでもそこまで考えずに映している。拡大して判読を試みたが、ちょっと無理だった。詳細不明。このお寺の建物を利用して、最初開校したらしい。
「川尻電車終点跡」碑
建物の壁に埋め込まれている。かつての川尻電車はここまで来ていたのか。建物の状況からすると、かつての市街のはずれの土地を利用して、線路が引かれたようだ。つーか、最初は民営鉄道だったのか。知らんかった。
川尻電車終点跡
川尻電車は、もともと熊本市河原町-川尻町
間を走った民営電車で、大正十五年(一九二六)
一月、まず熊本市世安町-岡町間が開通して
営業をはじめました。
翌昭和二年(一九二七)十一月二十五日、河原町-
川尻間七・六キロが全線開通し、城南の要衝
川尻町と熊本市との往来が大変便利にな
り住民の足として盛んに利用されました。
第二次世界大戦末期、昭和二十年十二月の
市営化後も地域住民に重宝がられましたが、
バスやマイカー利用の増加など交通体系の変
化から、昭和四十年二月一日に廃止されました。
現在では、この地が川尻電車の終点であっ
たことさえ分からないほど街は変わってし
まいましたが、神社仏閣や伝統工芸品店な
ど古い伝統を持ち続ける建物があちこちに
残っており往時を忍ばせています。
平成八年三月 熊本市