板坂耀子『江戸の紀行文:泰平の世の旅人たち』

江戸の紀行文―泰平の世の旅人たち (中公新書)

江戸の紀行文―泰平の世の旅人たち (中公新書)

 今まで、ほとんど評価されてこなかった江戸の紀行文学を再評価し、その特色と歴史的な展開をまとめた本。新書にしては、読むのに時間がかかった。
 あと、さまざまな紀行文から引用されているが、俗文の紀行文は翻刻さえしてあれば、かなり読めるな。しかし、雅文、お前はだめだ。つーか、古文、擬古文のまえに立ちはだかる最大の障害は、語彙だよな。いちいち辞書引きながら読む気にはならないし。そうなると、なじみのない単語ばかりで、サッパリわからない。


 内容としては、まず、江戸時代の紀行文の代表とされる松尾芭蕉の『おくのほそ道』が、実際には孤立した特殊例であり、ほとんど追随者がいないこと。芭蕉は、中世の紀行文の旅の愁いを再現しようと意図して書いており、その点で『おくのほそ道』は虚構性が強いと指摘する。このあたり、沢木耕太郎の『深夜特急』が、「自分探しのリアクション文体」という、それを書く「文体」を得るまでに十年を要したという指摘(山口誠『ニッポンの海外旅行』)を思い起こさせる。
 続いては年代順に。治安の安定とともに、地方出身者が大都市に見物に行くという風に、旅の構造が変化し、従来の紀行文のスタイルが無効化したこと。そのなかで、林羅山の『丙辰紀行』など、地誌や歴史書に親しんだ儒者を中心に、名所の情報を盛り込んだ実用的なスタイルの紀行文が出現すること。
 江戸の紀行文の代表として、貝原益軒を挙げ、「実用性」と「客観性」が江戸時代の紀行文の基準となり、また限界になったこと。そのようなスタイルを採用した理由として、益軒の思想が背景にあると指摘する。
 続いては、擬古文で個人的な心境と情報を融合させた本居宣長、創作も多く含んだ橘南谿、古川古松軒、女流作者として土屋斐子、小津久足を紹介している。最後の小津久足の評価が高い。
 あと、東海道の紀行がつまらないものが多いと指摘し、その理由として歴史的空間としての東海道と発展し変化していく時空としての東海道の二つの世界を適切に融合するのが難しかったことを指摘しているのが興味深い。