坪井川旧流路探し

 先日、見失った先の痕跡を探すのと、東側の水路の痕跡の探索。といっても、今回ほとんど成果なし。
 『新熊本市史』の別編に収録されている明治から昭和初期の市街図をみると、流路は北東方面に流れ、流長院を中州状に囲み、本流は即生寺の西側をたどっている。現在の地図に書き込むと下のような感じになるはず。

 で、このあたりを走ってみたが、手がかりはなし。もうちょっと古い地図を検討する必要があるな。


 東側、堀として開削された流路は、下の図のような経路を通っていたと推測される。まあ、こちらもほとんど成果なし。明確な痕跡は発見できず。例によって、南側からスタート。




 坪井橋のたもと、横断歩道上に暗渠らしきものが見える。位置的には、このあたりを流れていたはずで、これが旧流路に関係している可能性は高い。




 暗渠があるように見えなくもない。あるいは、この道路の左側に流路が存在していたのかもしれないが。





 不自然に広くなっている道と、写真右端の石垣が、もしかしたらと思うが。下の写真は、上の写真の右端、白いフェンスの下。この地面にもぐりこんでいる配管は、ここに暗渠が存在する、あるいはしたことを示しているのではないか。



 眞浄寺、ここと北の明専寺のすぐ西を流れていた。流路はこの道路上か、あるいはその西側にあったと思われるが、痕跡は見つけられなかった。




 東岸寺跡の地蔵堂。この向かいに小泉八雲の第二の住居があり、この地蔵堂は著作にも取り上げられている。眞浄寺、明専寺の延長線上にこの地蔵堂と旧居があり、この南で流路は西に曲がっていたと思われる。おそらくは、すぐ南の公園あたりだろう。