山本博文『お殿様たちの出世:江戸幕府老中への道』

お殿様たちの出世―江戸幕府老中への道 (新潮選書)

お殿様たちの出世―江戸幕府老中への道 (新潮選書)

 江戸幕府の全期間を通じた、老中の家系、石高、キャリアなどを検討し、時代ごとの地位や役割の変化を明らかにしている。プロソポグラフィックな研究方法だな。老中奉書に署名加判を加えていることが基準となっている。
 そもそも、老中とは君主である家康の言葉を代理で述べるのが仕事であり、必ずしも最上級の地位でなかったことが指摘される。後の時代でも、君主の側近くで仕える仕事、奥向きの仕事は、中下級の武士たちの職掌であることを考えると、納得できる。戦国時代から抜け出た直後の時代では、城と領国を預けられ、戦時には軍団を率いて馳せ参じるのが、最上級の待遇だったという。徳川四天王の家系は、その点で家格が高くなりすぎた結果、老中に任ずることが、逆に難しかったと指摘する。このあたり、谷口克広『信長の親衛隊』『信長軍の司令官』に見られる、信長家臣団におけるキャリアパスと相似している。
 また、ある程度は特定のふさわしい家系があったとも指摘される。
 家康から家綱の代までは、将軍との個人的な信頼関係が重視される、側近老中制の時代とされる。この時代には、将軍が子供のころから仕え、小姓→小姓組番頭→若年寄→老中というキャリアパスが基本であったことが指摘される。また、この時代の上がりは、大名となることであったことも指摘される。
 このような側近老中制は、傍流の綱吉の時代に変容を強いられる。子供時代からの側近をもたない綱吉は、側近集団として側用人を重用し、一方で官僚制が安定に達した老中ではある程度の地位をもっていた譜代大名を任じるようになる。この結果、奏者番寺社奉行兼帯→京都所司代ないし大阪城代というキャリアパスが一般化する。また、この時代以降、長期のキャリアを積み、また老中の在任期間が長くなったこともあって、ある程度高齢の人物が老中となるようになる。
 家斉の時代には分家から入り、まだ少年だった政権に重みを与えるために、吉宗の孫である松平定信が老中に就任する。これは異例に高い家格であったことが指摘される。また、御三家などの一門の影響という点でも異例であったようだ。また、この時代には若年寄からの昇進というパターンが見られるようになる。
 この後は将軍の権威の低下の時代。水野忠邦天保の改革の失敗、その後の若い老中による権威の低下、ペリー艦隊の来航と開国と難しい時代。徳川家臣団の最高位である井伊家の井伊直弼大老に任じて、政権の権威を高め、国難を乗り切ろうとするが、直弼暗殺で一気に求心力を失うに至る。幕末の混乱の中で、将軍の補佐役としての老中のあり方。
 最後に、田沼意次の時代の老中であった水野忠友の日記をもとに老中の日常がどのようなものであったかを記している。


 250年以上に及ぶ江戸幕府の存続期間中に、老中という役職とその役割が、どのように変化したかを明らかにしている。読みやすくて、なかなかおもしろかった。


 以下、メモ。

 堀田正盛は病気がちであったため、信濃国松本に十万石を与えて静養を命じた。
 このときの家光の正盛への言葉は、この頃の「年寄」職に対する見方を伝えていて興味深い。家光は、「心をのべ、ゆるゆると大名なみに成りて居り申せ」(『沢庵和尚書簡集』)と言っている。これまでの御前への「詰め奉公」までさせていた正盛を、そうした激務から解放し、十万石もの知行と松本城を与えて、ゆっくりと静養させるのは、家光の厚遇だったのである。
 つまり、この時期、徳川家家臣の上がりは老中ではなく、老中を経て「大名」になることだった。ここで言う「大名なみ」とは、通例の「一万石以上の知行を与えられた者」という意味ではなく、国持大名に準ずる領地を持つ者の意味である。
 たとえば、徳川四天王家がそれにあたる。それぞれが十四万石以上の領地を与えられ、年寄役は務めない。年寄役を務める者は側仕えの者で十分で、「大名」はもし合戦となれば、領地で養う軍団を率いて出陣することが任務だった。p.86

 戸田忠昌は、老中制を考える上で画期となる人物である。さほど石高のない譜代大名が、奏者番を振り出しに寺社奉行を務め、大阪城代ないし京都所司代を経て老中に至るという昇進コースがここに成立している。しかも忠昌の場合は、先祖がそれらの役職を務めていないにもかかわらず、本人が昇進していくことによって老中にまで進み、わずか一万石の無城から七万一千石の城主になっていることが注目される。
 なぜ、綱吉の時期にこうした昇進コースが成立したのだろうか。それは、綱吉が幕府内に側近を持たなかったからである。家光や家綱の場合は、「生まれながらの将軍」であったため、幼い頃から将来の腹心となるべき側近を小姓として身近に使っている。ともに成長すれば、将軍と老中として政務をとることが予定されていた。
 しかし、傍流である綱吉には、幕府内にそうした側近はいなかった。そのため、老中を選ぶとすれば、それまでに幕府内である程度地位を高めていた譜代大名を任じるしかなかったのである。官僚的老中は、綱吉だったからこそ任命されたのである。p.115