橋本文隆他編『消えゆく同潤会アパートメント』

消えゆく同潤会アパートメント (らんぷの本)

消えゆく同潤会アパートメント (らんぷの本)

消えゆく同潤会アパート 同潤会が描いた都市の住まい・江戸川アパートメント (シリーズ らんぷの本)

消えゆく同潤会アパート 同潤会が描いた都市の住まい・江戸川アパートメント (シリーズ らんぷの本)

 同潤会アパートメントとその建設母体の同潤会の概説やそれが日本の集合住宅の歴史でどういう意味を持つか、同潤会アパートメントのデータなど。また、江戸川アパートの建て替えの過程でできた「江戸川アパートメント研究会」の成果をもとにまとめられているので、江戸川アパートメントでの生活や建築の意匠、設備について詳しく述べられている。写真も多く、同潤会アパートメントがどのようなものだったのかを、知ることができる。できた当時は最新式の贅沢な住宅だったんだろうけど、今の目から見ると、風呂がないとか、電気設備が弱いとか、そのあたりは弱点だなあ。あと、通風や採光に気を使って設計されているようだが、このあたり、現在ではエアコンで密閉性が重視されるようになっているし、設計思想がずいぶん違うなあと感じる。あと、中庭重視の設計思想も興味深い。
 しかし、第三章の同潤会アパートのデータ集を見ると、大概、三階建てか四階建てで、現在の目から見ると低層の建物だなと感じる。やはり土地の高度利用とか、補修建て替え費用の捻出のために、取り壊されちゃうんだろうなあと。戦後に急激な人口の都市への流入が起こったことを考えると。あと、現在残っている上野下アパートメントが増築を認めないなどの厳しい管理が行われているというのは、アメリカのゲーテッドコミュニティが資産維持のために自治組織によって厳密な管理が行われているという話と相似するようで興味深い。資産価値を維持するためには、かなりきつい管理が必要なんだろうな。
 同潤会アパートメントのデータには、建て替え後の名称も書かれているが、「モンテベルデ横浜」「シャンポール三田」「レイトンハウス」「ツインタワーすみとし」「プリメール柳島」……どれも、横文字プラス地名なんだな。確かによく見かけるネーミングだけど、ひねりのない名前だなと感じる。


 以下、メモ:

1、街路を意識した建物配置の妙
2、家族世帯・独身者の混在居住
3、多様な住戸タイプ
4、共有施設の設置


といえる。
 1は同潤会の配置では、住棟を街路に沿って建てることが基本的原則であったことである。それは、道路からの景観を意識したもので、結果的には中庭を取り囲んだような配置となる。戦後の集合住宅団地の計画では、戦後急速に普及する民主主義下の平等化の表現のように、日照と通風の条件が同じになるように南に面して建物を配置するという形式をとっていた。同潤会のものは各住戸の平等化の前に、公共としての景観を重視したと考えられるのである。
 2は、居住者として単一家族だけを想定するのではなく、都市の住人としての単身者を重視した。そのため、家族世帯だけを対象としたものに加え、単身者との混在、単身者のみといった住人を意識した多様なバリエーションの計画を実施していた。
 3は住戸の和洋の起居形式とともに間取りも多様なものを用意していたことをさしている。
 4は集まって住むことの利便性の追求としての共有施設が用意されていたことをさす。
 これらの特徴に共通することは多様性ともいえるし、それは言い換えれば、都市を意識した住まいゆえのものと解釈できる。p.24

 このあたりに関しては、同潤会は明らかに戦後のニュータウンに優っているな。結局、ニュータウンは同年齢層を集中的に入れた結果、高齢化が進行しているし。

 ところが、この都市計画道路は戦争のため幻に終わった。そしてもともとは御用聞きや商人たちのための通用口として計画された西側道路からのアプローチが、中庭への唯一の入口となった。そして、そのことは中庭の奥行きを深く見せる視覚的な効果があった半面、幸か不幸か江戸川アパートメントの閉鎖性を強め、地域社会との隔離をもたらしたのである。p.51

 地域の小学校に通う子供は皆無だったので、外の子供が入ってくることはなく、また大人の目も行き届いていた。他人の子供でも叱ってくれる恐い小父さん、小母さんがいて、アパート全体で子供たちの躾をしているという感じであった。子供たちは一つ家の兄弟姉妹のようになり、群をなして走り回っていた。子供の付き合いが、やがて母親の輪をひろげ、こうして中庭という空間を介して「江戸川」のコミュニティは育まれたのである。p.52

 上の都市計画としての先進性はともかくとして、ある面では江戸川アパートメントは特権階級のゲーテッドコミュニティと化していたとも言えそうな。ほぼすべての家が、離れた私立の小学校に子供を通わせる文化を持っていたといえるわけで、そういう階層の文化資本が共通して育まれたとは言えそう。

 さて、現時点(平成15年)において、同潤会アパートメントはいよいよ、上野下アパートメントと三ノ輪アパートメントの二か所を残すのみとなり、他は地上から抹殺されてしまった。欧米の同時期に建設された集合住宅団地が今なお丁寧に管理され、住み続けられていること、さらにそれらのいくつかは市民の文化財として公的にサポートされていることを考えると、建築に携わる日本人として忸怩たる思いがある。p.122

 このあたりの貧しさは確かにあるよな。建築物をストックとして考えないというか。まあ、1920年代あたりからの都市の膨張や生活パターンの変化に違いがあることを考慮する必要はあると思うけど。水周りや家電製品なんかの、生活における身体感覚の変化では、日本の方が大きかっただろうし。