永原慶二『富士山宝永大爆発』

富士山宝永大爆発 (集英社新書)

富士山宝永大爆発 (集英社新書)

 宝永4(1707)年に起きた富士山の爆発による被害とそれからの復旧を図る現地住民の苦闘を描く。東日本大震災の後で読むと、災害に対して金をケチるのは、昔から変わらないんだなあとしか。幕府と勘定奉行の荻原重秀の、災害救援名目で全国から集めた税金の大半をがめた話には、あきれたというか、ありがちというか。49万両集めて、使ったのは6万両程度というひどさ。
 このときの爆発は短期間だったが、大量の噴出物が噴出し厚く堆積した。その結果、富士山の東麓、現在の御殿場市小山町の地域は、数10センチ以上の火山灰によって、耕地も植生も失い、生存基盤を根こそぎにされた。また、そこから流れ出す酒匂川の下流域、小田原市開成町などでは、火山灰の堆積による河床上昇によって頻繁に堤防が切れて、水害に悩まされるようになる。これらの被害は、酒匂川下流でも数十年、富士山東麓では現在に至るまで影響している。
 特に富士山東麓(御厨地方)は、山地で米による税収がさほど期待できないこともあって、非常にないがしろにされている。最終的に、人口が半減のまま、幕末まで推移している。この地域は、山村で林産物や馬による運送収入と耕地からの収穫物で生計を維持していたが、植生の壊滅と耕地の喪失は、即座に住民を飢餓に追い込んだ。結果、働ける人間はほとんど出稼ぎで地域を離れるという状況になっている。特に飼料の供給ができなくなって馬を維持できなかったのは、ダメージが大きかったのではないかと思う。当面の食料や火山灰除去の費用を幕府に対して要求しつつ、なかなか動かない幕府の援助をほとんど受けずに、自力で耕地を再開発する苦悩。被災地域の植生が壊滅した結果、残る山林の資源採取をめぐって入会の紛争が頻発する。災害後の村落間、村落内の軋轢。
 一方、酒匂川下流地域では、扇状地の端で河床が上昇し、頻繁に堤防が切れるようになった。これに対して、場当たり的な町人請負による堤防修復が繰り返され、堆砂の除去が不十分だった結果、酒匂川の右岸側では恒常的に水害が繰り返されるようになる。特に直撃を受けた斑目などの村々は、非常に大きな苦難を負った。また、流路の変動によって、既存の水利システムが崩壊し、水利システムの再編を巡って左岸の村々と新流路で被害を受ける右岸西側の村々、新旧二つの流路の間に位置する村々の、三つ巴の利害対立。最終的に田中丘隅、蓑笠之助の2代にわたる「地方巧者」の防水普請によって、半世紀近くの時間をかけて安定を取り戻す。
 まあ、災害に対して為政者が冷たいのは変わらないなという印象。あと、内部での利害対立とか。あと、本書では耕地重視だけど、実際には御厨地方では林産物と運送による貨幣収入が重要だったんじゃなかろうかと感じる。常田畑での生産は商品作物としての役割が大きかったんじゃなかろうか。特に米。あと、野畠がどのようなものであったのかも興味深い。


 本書が対象とする地域に、なじみがなくて、あとから国土地理院の「ウォッちず」を利用して思ったこと。国土地理院の「電子国土基本図」って、現在の地図からかつての定住の状況を見ようとすると、ものすごくみにくいな。特に、水路の色が毒々しいのと、集落が着色されていないせいだと思うけど。工場とか、大型施設は目立つようになっているのに。どうしてこうなった。


 以下、メモ:

 噴火・洪水前の家数は九一軒だったが、一三年後の現在は「村に有る家四一軒」とあり、五〇軒がいなくなってしまった。人口は五七七人だったが、現在「村に有る人」は男一〇三人・女八五人だけで、一八四人が餓死、二五人が病死した。また、一八三人は「奉公かせぎに所々に罷出」、飼っていた馬五八疋は、ゼロとなった。この数字から見ると御厨地方の深砂地帯の惨状と比べて優るとも劣らぬほどのきびしさである。深い降砂も手がつけられないが、新川筋となったこの竹松村など六ヵ村は、砂と泥と大小の岩石が混じり合った泥流に耕地も居宅ものみこまれてしまったから、その点ではいちだんときびしい。「当村御年貢米、砂降り水損故御上納仕らず候」というのがどうにもならない現実であった。p.186

 酒匂川下流の水害を受けた地域の惨状。人口の三分の一が餓死ってのが、なんとも酷い。

土木技術と地方巧者
 ところでこの一大災害に立ち向い、ともかくも住民の生活を救ったものの一つは、当時の社会がもっていた土木技術であった。
 関東郡代伊奈氏は農政・土木などを中心とするいわゆる「地方」技術の名手という家であって、検地・測量・開発・干拓・治水・灌漑など各種の技術を駆使して、江戸の市街地を水害から守り、後背地の大規模な開発を行うなど大きな功績を残し、その手腕が酒匂川治水にも大きく買われたことは疑いない。
 富士川上流の釜無川治水を通じて武田時代に発達した甲州流と、紀ノ川治水によって鍛えあげられた紀州流の土木治水技術とはその代表的なもので、とりわけ水勢制御の面で面目を一新する新しい技術的工夫がふかめられた。
 しかも、それらの技術は伊奈氏のような支配層の手元のみ発達し、また保持されてきたものではなかった。酒匂川の治水・水利の施設・秩序が示すように、それらは村々の「地方巧者」たちによって生み出され、駆使されていた面が大きい。
 大口堤切れのくりかえしによって幕府も小田原藩も途方にくれていた時、大口堤を二重堤にしてその中間に洪水・土砂を誘導し閉じこめるという構想を提示したのも現地の側であった。
 田中丘隅は川崎宿の問屋出身で、民衆サイドから多摩川の治水灌漑の事業に加わり、地方技術を学んできた人物であった。
 蓑笠之助も幕府の役人となったが、もとをただせば、伊奈氏とは出自の異なる民間的人物であり、それゆえにこそ獲得しえた技術・知識をもっていた。そうしたものが幕府にも吸い上げられ登用されていったのである。
 当時村々の名主層や、地域支配の末端を担う代官クラスの人びとが、多くの場合そうした地方技術に通じていた。戦国以来の新田開発・治水事業や、それを受けての江戸前期の幕藩制的当時組織・村請制がそれを生み出していったことの意味は大きい。有能な在村指導層の広範な存在は一貫して復興の力となった。


被災地住民の執念と底力
 最後に記しておきたいのは、被災地住民の執念と底力ともいうべきねばり強いパワーである。
 御厨でも足柄でも被災地ではかつてあった家数・人口が半減し、各戸に飼われていた馬はほとんどゼロになった。御厨の大御神村は爆発前三六戸だった家数が一五戸〜一四戸に激減し、この村だけは幕府倒壊まで幕領のままだった。そして明治・大正・昭和(戦前)を通じても一四戸のままだった。共同体成員としての住民権がその数で固定されてしまったという閉鎖的な面もあろうが、深砂は明治以降になっても戸数の増加を許さないほどのきびしい状態のままであったのも事実である。その中で村人の共同労働による歩一歩の開発が続けられた。
 足柄地方でも蓑笠之助の大口堤締切り以後もいくどとなく氾濫大洪水が発生し、復興の歩みは容易でなかった。それでもそうした困難と向きあって災害と戦い続け、どこの村も本当に亡所におちいってしまうことはなかった。宝永降砂は御厨地方では今も歴然とそのあとを残している。今日多くの人に知られている富士霊園や富士スピードウェイは、大御神村の地付きの入会地に造られているが、そのあたりの自然地面を歩けば一歩一歩が砂に沈み、その深さにあらためて驚かされるのである。
 それほどの被害を耐え抜いて生きてきた究極の力は、何といってもその土地に密着した住民自身の意欲と底力だといわなくてはならない。降砂によって営農・生活条件は決定的なダメージを受け、支配者からは「自力砂除」「どこに移るも構いなし」と突き放されながら、地元に踏みとどまった人々は、積砂量・砂除場・水路の復興・砂除堰の開削、あるいはそれに必要な人夫数・人夫代等をごく短い日数で計算し、書類を作成し、酒匂代官や小田原藩に提出している。
 そこでは村々の内部に存在する計量的能力・文書作成能力・支配の側との交渉能力などが発揮された。それは村々の名主層を中心とする地域社会の潜在的諸能力とその結集であったといってよい。
 爆発直後から足柄上・下郡三筋の村々はくりかえし寄合をもって協議し、請願書を作成し、江戸まで訴え出ようとした。その早い行動力や判断力・交渉力には驚かされるものがある。御厨地方は足柄地方とちがって山がかりの僻地というべき土地柄であったが、そこでも五八ヵ村訴願などに示した深砂の大御神村・棚頭村名主などをはじめとする在村指導者層の役割は限りなく大きい。
 また復興過程で村境や耕地境の画定問題、流出農民の帰村希望、村内での共同開発など村人同士の利害の対立する問題には、村役人層の調停能力が大きく発揮された。それなくしては村の自力復興は期すべくもなかったが、かれらはその力を見事に発揮した。p.257-260

 民間の保持する力。こういう村レベルでの知的能力の蓄積が、急速な近代化を可能にしたんだよな。