野口武彦『幕府歩兵隊:幕末を駆けぬけた兵士集団』

 徳川幕府の最末期、江戸の下層民を徴募して編成された洋式歩兵部隊の成立から消滅までを描く。1862年ころから日雇い層などの雇い入れがが始まり、第二次長州征伐の敗北によって拡充。その後、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で各地を転戦し、函館五稜郭の榎本軍降伏によって解散する。これらの洋式軍隊が戊辰戦争の過程で善戦している。このあたり、訓練による身体的規律化って問題に連なるのかな。マクニールの『戦争の世界史』でも、このあたりの訓練が持つ影響という話をしていたような。あと、指揮官の指揮のまずさも印象的。
 興味深いのが、洋式軍隊の導入にともなうリクルートの問題。士分のものを歩兵として使うことができないために、博徒などを徴募したり、まずは一番低い身分の小十人組御徒組、続いて番方の諸組が歩兵化される。これらの歩兵化されたのが、戦国時代には足軽クラスとして集団戦をやっていた階層であったことが興味深い。そういう観点からは、失業した駕籠かきなどを雇って兵士にするのは武家奉公人の復活。ある意味では、戦国時代のリバイバルというか。知行をもらっている階層は、たしかに位置付けは士官なのだから、簡単に歩兵にはできないというのも納得できる。このあたりの問題は根岸茂夫『大名行列を解剖する:江戸の人材派遣』と一緒に読むべし。
 結局そういう方向にはならなかったわけだが徳川幕府が生き残った場合、旗本とか中小の譜代大名ってのはどういう位置付けになったんだろうなあ。役にたたないお荷物と化したのは確実だろうし。


 以下、メモ:

 脱走兵の集団を仕切っていたのは、小頭の藤吉という男だった。「この者は非常に乱暴ものでした。会津生れとかで、江戸の火消しの頭だったとかで身体一面に刺青のある一寸見て恐ろしい様な奴でした」(内田万次郎談、『梁田戦蹟史』)とわれる。なかなか人望もあり、首謀者になって歩兵を焚きつけたのである。腕力も強かったが運もめっぽう強い奴で、その後戊辰戦争の修羅場を潜りぬけて奇蹟的に生き延び、維新後は山岡鉄舟の世話で宮内庁に入り、明治天皇の馭者になったそうだ(『戊辰戦争事典』)。まるで山田風太郎ワールドの登場人物ではないか。但し残念ながら、いくつかある山岡鉄舟伝にはその記事は見えない。p.232

 本当だとしたら、マジで小説みたいな話だな。

 脱走歩兵隊はもとより「天皇の軍隊」ではなかったし、もはや「将軍の軍隊」でもありえなかったことの意味は大きい。徳川家に対する恩義とか、リーダーへの任侠道的な付和雷同とか、まだ残存していたいわば《前近代》的な要素に評価を曇らされて、士気の根本には給金と軍律でしか動かないという独特の職業倫理があったことを見忘れてはならない。別に「天皇」とか「将軍」とかパーソナルな忠誠対象がなくても、兵士はけっこういい戦争をする――それが幕府歩兵隊が後世に伝える《物語》なのである。p.282

 明治の帝国陸軍は幕府歩兵隊ばかりか、けっきょくは長州奇兵隊も薩摩小銃隊もないがしろにする発想で建軍された。徴兵制は、階級分化した農村社会を背景に職業軍人と兵役で駆り出される消耗品的な兵卒の群を作り出した。なにか貴重な職人芸のようなものが見捨てられたのである。幕末に生れた軍隊は、円満には近代軍隊と接続されなかった。明治三年(一八七〇)の奇兵隊の反乱、明治七年の佐賀の乱、明治十年の西南戦争などを一概に封建反動と片付けてはならない。士族反乱の影の一面には、疑いもなく、軍功を正当に報われなかった下層兵士の怨念が渦巻いていたはずである。p.283