ケネス・ルオフ『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』

紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム (朝日選書)

紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム (朝日選書)

 うーむ、読むのに時間がかかった。結局、一週間近く格闘していたことになるのか。前半が特に読みにくかったように思う。洋書を読むときにある字面は追えているけど著者の思考がサッパリわからないモードなのか、あるいは雑多な話を強引に配列したせいなのか。選書のくせに割とガチな学術書だったのが誤算だったな。
 全体のテーマとしては皇紀二千六百年を記念する諸行事・活動を通じて行われた、ファシズム国家体制への動員とそれへの下からの支持をさまざまな側面から描くことでいいのかな。「国史」の利用、消費の誘導、観光を利用した万世一系や植民地支配の正当性の教化、海外移民の忠誠の調達に利用しようとした、その状況を描く。神武天皇を「カリスマ」とした大衆動員が、ドイツやイタリアのファシズムと比較できる「反動的モダニズム」の現れという理解には、基本的に賛成するが、翻ってこのような現象が英米仏のような「自由陣営」の諸国に存在しなかったのか。そこはもっときっちり考える必要があるのではないだろうかと思った。
 あと、皇紀2550年がほとんど無視されたことと対比すると、1940年にはことさらこれを祝って、体制を正当化する必要があったという点に注目する必要があるかもしれないと思った。逆に言えば、軍部の勢力伸長や日中戦争による生活の圧迫への批判が無視しえないレベルに有ったのではなかろうか。


 第一章は「国史」の操作による現体制の正当化の問題。万世一系イデオロギーを鼓吹することに官民さまざまな主体が参加したこと。地方は自らに都合がいいように活用しようと試み、新聞社はブームを演出し歌や書物の懸賞で集め出版することで利益を得たこと。また、東大や京大の歴史学者が聖跡の検証やさまざまな著述を通じて、帝国主義や侵略を正当化する国史の操作に、アカデミズムの側から権威づけしたことを指摘する。
 しかし帝大の学者が、学問的に明らかに無理のある「神武天皇聖蹟調査委員会」や「国史館造営委員会」、「日本文化大観監修委員会」などに参加して、神話の権威付けに貢献したってのは呆れるな。西田直二郎、宮地直一、平泉澄山田孝雄、辻善之助、中村直勝、坂本太郎などの名が挙げられているが、戦後にも国立大学に残った人間やその後も大学や教育界に残った人間ばかりなんだよな。呆れるしかない。


 第二章はさまざまな大衆の参加、あるいは消費を通じた動員について。一章にまとめるにはちょっと無理があるような気もするが。ラジオを通じた「時間支配」や勤労奉仕、寄附活動や懸賞募集など。新聞社や百貨店がさまざまなイベントを仕掛け、それによって愛国心を煽り、同時に利益を得ていたことが指摘される。たしかにこの時代を「暗い時代」とだけみるのは間違いだとは思うが、同時に「忠順さ」を消費に持ち込まなくてはならなくなっていた時代であるというのも、また確かなのではないだろうか。


 第三章から第五章までの三章は観光の持つ意味について議論を行っている。国内の神武聖蹟観光、朝鮮観光、満州観光が、現体制や現在の政策の正当化にどのように奉仕したかを描く。ただ、後二者は皇紀二千六百年とはあまり関係のないようにも思うが。
 第三章は国内の神武聖蹟観光について。地方が観光客誘致の目的で積極的に「聖蹟」を開発し、宣伝した状況。そこで使われた神武東征などの言説、象徴、建造物が、軍国主義や拡張政策を支持するように仕組まれていたことを指摘する。
 第四章は朝鮮旅行について。朝鮮観光の目的地が、「日本が朝鮮半島の文明化を果たした」、「かつての朝鮮の文明の保護者であること」を主張するような場所であり、植民地化の正当化に使われたこと。また、逆に抵抗の手段として使われた側面も指摘する。
 第五章は満州観光を扱う。満州で観光旅行の対象となる場所は旅順など日露戦争の戦跡や満州事変時の戦闘があった場所であり、こちらも支配の正当性を訴える教育的な意義があると指摘される。
 このような観光旅行の目的地となる場所が何を表しているかを考えていくと、日本の戦後の修学旅行の目的地を考えると興味深いかもしれないと思った。特に原爆が投下された広島・長崎を巡ることがどのようなメッセージを発しているかとか。


 第六章は移民の問題。帝国の影響圏の外に移住した人々に帝国を支援させるように試みた「海外同胞東京大会」について。日本側の意図に反して、公式的にはともかく、移民たちには別の視点があったことを指摘。特に二世の日本文化をどう維持していくかなど。あるいは、人種差別によって公民権が制限されていたために、一世は故国との関係を維持する必要があったこと。戸籍制度の問題点など。


 以下、メモ:

 紀元二千六百年を論じた本書には、さまざまの複雑なテーマが盛りこまれているが、私が目ざしたひとつの目標は、戦時(戦争末期はともかくとして)が日本人にとって暗い谷間だったという見方をくつがえすことにあったといってよいだろう。私は研究を進めるうちに、こうした見方に疑問を呈するには、近代性やファシズム、人種差別的国際システムへの日本の挑戦など、あらゆるテーマを分析するのもさることながら、紀元二千六百年における消費主義とナショナリズムの全般的関連、とりわけ一九四〇年の旅行部門の好調ぶりに焦点をあてたほうがはるかに効果的だと確信するようになった、実際、戦前の日本では、観光は一九四〇年、つまり紀元二千六百年にピークを迎えていたのである。p.障ル-障・

 この見方にはある程度同意するけど、一方で戦争による資源の統制が一般庶民の生活に影を投げかけつつある状況であったのも事実ではなかろうか。比較的安定した日常が維持されていたのは確かだろうし、都市部では軍需物資の増産による賃金増があったらしいのも確かみたいだけど。

 観光は権威主義軍国主義ファシズムとまるでそりが合わないように思えるかもしれない。しかし、宗教的ないし政治的イデオロギーを築き、強化するには、筋書きの決まった場所を実際に回らせることも必要だった。カールリス・ウルマニス(一八七七-一九四二)の強権支配下にあったラトビアでは、一九三四年から四二年にかけて人々は「国家観光」になじんでいた。またフランシスコ・フランコ(一八九二-一九七五)の体制が確立された三十年代末期のスペインでは、かつてのスペイン内戦で、敵の共和派がいかに堕落していたかを示すための観光地訪問が企画されていた。ファシスト・イタリアでは、全国余暇事業団による「余暇事業(ドーポラボーロ)」が組織されている。とりわけナチス・ドイツでは「歓喜力行団(KdF)」が余暇活動を企画していた。
 これらをみれば、一九四二年半ばに戦況が急速に悪化するまで、日本の権威主義的な政府のもとでも観光が盛んだったのを知ったところで、驚くにはあたらないだろう。観光はまさしく公的な目標にかなっていたし、少なくともそうしたものとして正当化することができたのである。日本政府はKdFのような余暇活動組織をつくらなかったけれども、戦時期においては国家の代理機関が観光を奨励する役割を果たしていたのである。p.23

 観光と権威主義的政権。

 海外同胞大会が開かれる以前も以後も、その最中も、政府当局は血のきずなに訴えることで、在外日本人に愛国心を喚起するとともに、日本の国策を支持するように呼びかけていた。日本では大規模な移民が発生する以前から、中央集権的な近代国家が生まれていた。それでも移民の始まった時期は、日本政府が北海道から沖縄にいたるまで日本列島全域で国民なるものをつくりあげようとしていたころと重なっている。北海道と沖縄がはっきり日本の内地と意識されるようになったのは二十世紀初めになってからである。実は、現在日本列島と称される場所を離れた人々を「日本人移民」とひとくくりにするのは、問題がないとはいえない。そうした規定は、初期移民が必ずしももっていたとは思えない国民なるものを前提にしているからである。
 沖縄を例にとれば、国として移民を論じる際に忘れられがちな多義性が浮かびあがってくる。沖縄が正式に日本という国民国家に組み入れられたのは一八七九年になってからである(いわゆる琉球処分によって沖縄県が設置された)。その後、大勢の沖縄人が、日本の本土や帝国領内、さらに日本の政治的統制がおよばない地域にも移住する。遠く離れた地では、沖縄人が地元の「日本人社会」で多数派を形成することもあった。しかし、大日本帝国の内外で、沖縄人は日本人からの差別に直面していた。歴史学者の冨山一郎は、沖縄移民の団体が取り組んだ運動について記述している。ロバート・アラカキもまた、帝国の外に移住した沖縄人は「二重のマイノリティ」として扱われたと述べている。つまり沖縄人は地元の支配的な白人社会からは日本人として差別され、さらに日本人社会のなかでも沖縄人として差別されていたというのである。p.30-1

 日本「国民」のあいまいさ。

 私は日本による欧米の人種差別主義、自民族中心主義への挑戦を強調することは大事だと思う一方で、日本の戦時体制を記述するには軍国主義その他の概念を適用するよりファシズムのほうが適切だと考えている。しかし、紀元二千六百年記念行事に関しては、もっとも当てはまる概念は近代性である。日本の指導者が当時、悠久なる日本の伝統について、いつも雄弁に言及していたとはいえ、戦時日本の形態は時代錯誤的な伝統主義への回帰というより、近代性のバリエーションなのである(ファシズム自体が近代性の産物である)。歴史学者のあいだで、近代性の定義は必ずしも一致しているわけではないが、本書に関するかぎり、近代性というときは、国民国家、産業化、グローバルな統合の進展、中産階級大衆社会の登場、政治参加形態の拡大、そして二十世紀半ばの文脈でいえば帝国主義を指すことにしている。近代性の度合いという点では、日本はナチス・ドイツファシスト・イタリアと共通点をもっているが、一方で、また米国のような民主主義国、さらにはソ連と似通っている面もあった。p.50-1

 近代性。

 歴史学者のテイラー・アトキンズは戦間期日本のジャズを研究した著書で、帝国日本で音楽産業が隆盛していたことに注目している。同じく歴史学者のバラク・クシュナーは、音楽だけではなくお笑いのレコードも戦時中人気があったと述べている。一九三〇年代後半から四〇年代半ばにかけ、日本が「暗い谷間」にあったという説がそれほど強固でないなら、当時レコードの製作にどれほど消費市場の動向が重要だったかをくどくどと述べる必要もあるまい。三七年に日本では二九万台近い蓄音器が売れているが、この年を境に、政府は規制を課するようになり、何年もたたないうちに一般消費用の蓄音機は生産できなくなってしまう。ところが蓄音機とちがい、レコードの生産と販売は、中国大陸での戦争がマイナスの影響をもたらしたにもかかわらず、四二年になってもかなりの売れ行きを保っていた。三六年のピーク時には帝国日本におけるレコードの販売は三〇〇〇万枚近くに達していた。そして、四〇年でも、日本の消費者は二一〇〇万枚もレコードを買っていたのである。p.118-9

 このうちどのくらいの枚数が国家の用途で買われたんだろうな。