コペル君と豊田正子 - 1930年代の教養主義と格差 - Ohnoblog 2

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「うん、そうだ。君はこれから、いろんな新しいことに向かっていく。それを今までのようによく見て、正直に書くんだな。そうすると、だんだん人間が偉くなっていくんだ」

先生、それはあまりな理想論です!とちゃかしてはいけない。(貧しくても、今後の新しい体験を正直に生きれば)「だんだん人間が偉くなっていく」と言い切る信念、そういう素朴で純粋な信念をまだ疑わずに持ち得た時代なのである。貧困が階層格差や教育格差などの問題を生んでいることは現代と同じなのに、何が違うのかと改めて考えさせられる。

大木先生の最後の言葉は、コペル君に呼びかけた叔父さんの言葉ともどこか共通するものがある。

将来の社会を背負って立つことが期待されている一握りのエリート少年にも、女工として社会の底辺で生きて行く少女(豊田正子は『婦人公論』に投稿し続け、随筆家になるが)にも、それぞれまっすぐな期待をかけ、鼓舞し励まし、あるべき方向を示してやるのが、インテリゲンチャの正しい振る舞いだったのだ。

もっと言えば、コペル君には「この社会の不正を正す立場になれ」と、豊田正子には「この社会の抑圧に負けずに闘え」というメッセージを贈るのが、教養人としての役割だった。

そういう大人の役割がほとんど機能しなくなって久しい。教養主義が衰退し、戦後の中流幻想も完全に潰えたところで、現在、身も蓋もない格差だけが前面化している。

 こういう素朴な発展志向を普通に言えるのがモダンで、こういうまっすぐなメッセージを発せなくなったのがポストモダンなんだろうなあとも思う。輝かしい未来をとっても夢想できないというか。ユートピア小説からサイバーパンクへの時代に変遷とも言えそうだけど。