芳賀啓『地図・場所・記憶:地域資料としての地図をめぐって』

地図・場所・記憶―地域資料としての地図をめぐって (多摩デポブックレット 3)

地図・場所・記憶―地域資料としての地図をめぐって (多摩デポブックレット 3)

 共同保存図書館多摩開催の講演をまとめたもののようだ。講演者は古地図の再刊を行っている出版社の之潮の社長。すらすらと読める短い本ながら、うなずくところが多い。しかしまあ、良心的にやろうとすれば価格が高騰してしまうというのは、なかなか難しい問題ではある。
 後の時代につくられた、情報源とならない「長禄江戸図」の話が興味深い。


 以下、メモ:

 得心のいく本づくりの基準のひとつは、極端に言えばその本なり資料集に、まともな「索引」があるか否かということになります。p.9

 さらに、そうした地図を、「地図」の形そのまま(枚葉)に復刊するのではなく、書籍形式に収めようとするのにはわけがあります。書籍は「記憶」のための一形式だと位置付けているからです。「記憶」は、物質によってはじめて実体を得る。つまり伝存する物質が記憶を媒介し、保障する。それが記録です。「本」は記録=記憶のために、私が今日敢えて選びとる、ひとつの形式なのです。
 地図は一般の書籍といささか性格を異にし、「即実用」の面が強い。地図はある明確な目的、用途を想定してつくられる。そのため、目的が達せられれば、逆にその多くは廃棄されてしまうのです。学校や公共機関、民間企業でも、地図の購入費目は「消耗品」です。高度経済成長期でなくとも、地図は「最新のもの」でなければ用をなしません。目的からいえば、地図は最新のものがあればいい。古いものは要らないし、保管や整理も面倒ですから、結局捨てることになる。
 ちょっと余計なことを付け加えますと、一般的に「使用頻度の激しかった地図、もっとも需要があった地域の地図ほど後世には残らない」という法則があるのではないかと思っています。そういうものは、紙も「版」も、ボロボロになるまで使われるし、文字通りゴミになって廃棄され、古物の流通ルートや「オークション」にも出ることは稀なのです。p.16-7

 Zという住宅地図の「ガリバー会社」があるますが、その本社は九州の小倉に所在します。十二年ほど前そこを訪ねたとき、古い出版物をどうしているか訊いたところ、「すべて売ります」という答えでした。出版物を最低一部ずつ保存する、というような普通の出版社のやりかたは採らないというのです。さらに、作製したもののデータについて尋ねたのですが、こちらは「基本的にすべて保存しています」との返答。しかし「読みだせるかどうか、試したことはない」と。
 磁気テープやデジタルデータは場所もとらないから保存しようと思えば可能でしょうが、それが今日再生できるかどうかについては大きな疑問があります。なつかしきデッキ式オープンリールテープや、ベータ方式のビデオテープの例はあまり適切ではないかもしれませんが、ハードシステムの「技術革新(イノベーション)」によって、ソフトが死物同然となるのは今日ありふれた風景といっていい。ましてデジタルデータは、繰り返しますが、固定されず、どのような変更も可能で、また一挙に消去できる」。「記録」として、実はこれほど「不適切」なメディアはほかにないといっていいのです。p19-20

 けれども、地図が「空間情報」=デジタルデータになった時点で、「版」は存在しない。原理的には日々刻々更新されうるし、常に最新ですが、固定されていない。逆に言えば、そのままでは「過去は刻々消去される」のです。仮に、一定のサイクルで地図データを保存することがシステム化され、あるいは義務化されているとしましょう。けれども今日一般市民が旧版地形図(過去の紙地図)を手にするようにそれを入手できるかというと、その保証はどこにもない。デジタルデータは古書・古物のように流通せず、たとえ流通していたとしても、その真贋を見極めることは、原理的に不可能なのです。まして、前述のようにシステムや機器の「進化」によってデータアクセスが困難になったり、不可能になったりするケースは、いかようにも想定が可能でしょう。p.21

 デジタルデータの弱み。それこそDVDがもう時代遅れになりつつあるし、一昔前のゲームができないとか、事例はいくらでもあるしな。

 「都市化」のフィジカルなプロセスは、1明るくすること(伐採)、2乾かすこと(埋立)、3平らにする(削り、埋める)こと、の三側面で進行します。かつては雑木林、水田、あるいは畑地、山稜、斜面、崖、そして谷底、沼地、つまりどのあたりが埋立地であるか、盛土、切土地域はどこのあたるか等々は地域防災の基本情報です。それを調べる手掛かりはまずこの地図を措いてほかにありません。このような基本情報が、住民のいる「その地域に」、適切な形式において複製され、保存と閲覧に適した書籍形式で備えられ、公開されていることが、市民社会の基本をかたちづくるのだと思っています。地域資料であっても中央のどこかにまとまってあればそれでよいという発想は、伊能図と明治初期の地誌資料が一箇所に「召し上げられた」末に、関東大震災で焼滅した事例を挙げるまでもなく、間違いです。p.50