大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』

特務艦「宗谷」の昭和史

特務艦「宗谷」の昭和史

 初代の南極観測船である「宗谷」を、砕氷船になるまえの前半生に焦点を当てて描いている。船そのものの行動も詳しく追っているが、同時に、外交や戦争、南極観測隊の送りだしまでの紆余曲折などとからめて描いている。宗谷の生れが、ソ連の注文で建造された耐氷貨物船であり、結局ソ連に引き渡されずに地領丸と名付けられ日本で活動、その後、特務艦として海軍に購入され宗谷と命名、南方での測量活動に従事という経歴を歩んでいる。その点では、非常に国際情勢とからめて描きやすい船ではある。ソ連との外交課題になり、南方での測量活動は、対米戦争を遂行するための港湾の確保にぜひとも必要だったと、任務柄、その活動に、日本の戦略が大きくからんでいる。前2/3ほどが特務艦として、あるいは灯台補給船としての活動に充てられているのが興味深い。
 しかし、ラバウルを拠点に活動し、日本と南洋を何度も往復、さらにトラック島空襲と横須賀空襲に遭遇しながら、大きな損害を受けなかった宗谷は稀に見る幸運な船であることはたしかだろうな。機関が不調でフィリピンに送られなかったのも、生き残った要因の一つなんだろうけど。日本近海でも次々船が沈められる大戦の最末期にも、あちらこちらで輸送活動をしているわけで。


 後の1/3はかなりの部分が南極観測隊の送りだしに関わる話。国際地球観測年に際し、南極観測隊を送りだすに至る経緯と 乗り組む隊員が決まるまでの紆余曲折。最初は朝日新聞社が金も情報も全面的に支援するなかで、送りだしの準備が進む。その後は、人選や主導権をめぐる、ものすごく生臭い争い。著者が参照しているのが主に朝日新聞側の記述だけに、割り引いて考える必要もあるかもしれないが、思わずドン引きしてしまう露骨さで。結局は京大や早稲田大の関係者を押しのけて、東大関係者で固めてしまうあたりが、ステレオタイプな感じの東大閥っぷりで。このあたり、南極観測隊参加者の経歴を調べて並べて見ると、おもしろいかもしれないな。まあ、学者の対立関係とか権力争いって、わりに露骨なもんだけど。この手の大プロジェクトには、やはりロマンも何もあったもんじゃないな。

 ところが十月二十七日、朝日新聞社内事務局に松本船長がやってきた。
「プリンスハラルドの地図をもらえませんか」と、松本がいう。
「あれっ、吉川君が持っているはずだが?」
 吉川君とは、東大理学部地理学科助教授・吉川虎雄である。地理担当の吉川は、ノルウェー探検隊が一九三七年に製作した地図を独自に入手していた。それと同じものを取り寄せていた矢田は、松本に見せたことがある。
「それが、接岸のときに見せるといって出したがらないんだ。こっちも上陸の作戦を立てる必要はあるしね。あの地図のノルウェー語が読めんから、ふりがなをつけたものを沢山もらえないだろうか。アメリカ海軍の地図は、大雑把で使い物にならんのだよ」
 矢田は、いまとなっては文部省か永田のやるべき仕事なのにとおもいながら、「よし、わかった」と応えていた。p.310

 鈴木は、この遅れを「計画作成に必要なデーターや参考となる前例がなかったこと」を挙げているが、内紛が最大の原因ではなかったか。詳述は避けるが、一例だけ触れておこう。
 一年まえ、矢田は、荷物を基地へ運ぶのに雪上車が八台必要と計算した。そして今回、四台を搭載して南極へ行ったが、上陸をはじめて八台が妥当な数字だったことが判明している。資料を読み込んだ矢田の綿密な計算は、物資の調達から積込みまでまったく生かされなかったのである。p.311

 このあたりの記述や第一次観測隊の上陸時の時間の空費、第二次観測隊でセクショナリズムで飛行機利用を怠ったなんて話をよむと、本書では、永田隊長らの器量不足に対して批判的なのかね。様々な人の証言をチェックする必要があるとは思うが。