- 作者: 山本ひろ子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/12/21
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神仏習合による本地垂迹の要素、伊勢神宮の内宮、外宮を両界曼荼羅と見立てる両部神道の影響、社会経済構造の変化に伴う外宮の地位強化と豊受大神の創造神化の活動、宗教的心性の変化と様々な伝承の混淆、これらが相まって正直言うと全体の流れはよく分からなかったり。豊受大神と天の瓊矛の関係や独杵王の関係なんかがいまいちすっきりしないというか。
あと、神話として考えるなら、記紀神話より中世の神話の方が魅力的だと感じる。
1、天地開闢の昔、水が変化して天地となって以降、高天海原に独り化生した「霊物」があった。その形は「葦牙」のようであった。名前は知られていない。
2、そのとき、霊物の中から神が化生した。これを天の神とも、また「大梵天王」とも名づける。
3、天帝の御代になって、この霊物の名を「天の瓊矛」とも、「金剛宝杵」とも名づける。p.40
引用されているこれなんか、なかなかいいイメージだと思うのだが。
以下、メモ:
周知のように、中世は本地垂迹説を旗印とする神仏習合の時代であった。本地としての仏・菩薩が、神となってこの世に迹を垂れて衆生を救うという思潮で、平安末から鎌倉にかけて、それぞれの神々に仏・菩薩が配当されていく。たとえば天照大神は、観音の化現で大日如来の垂迹であるというように。それは神々が、古代そのままの様態では、もはや人々の信仰的要請に応えられないことの表明でもあった。p.6-7
記紀神話をリバイバルさせた現在でも変わっていない問題だよなあ、この「信仰的要請に応えられない」というのは。
しかし、豊受大神の誕生は異なる。豊受大神は「玉」から超自然的に化生しており、二神の性的和合はもちろん、親神の身体性を必要としていない。おしなべて中世神話は、神の肉体には無関心であった。p.67
神秘主義思想みたいな感じなのかね。