宇佐美昇三『笠戸丸から見た日本:したたかに生きた船の物語』

笠戸丸から見た日本―したたかに生きた船の物語

笠戸丸から見た日本―したたかに生きた船の物語

 十進分類の556のところに商船の生涯を追った本が何冊かあったので、県立図書館がしばらく休館になるタイミングで一気に借りる。「宗谷」に続いて、二冊目。しかしまあ、400ページ近い本を二日で読むのはちょっときつい。しかし、16日までにあと5冊読まないといけないんだよなあ…
 本書は最初のブラジル移民船であり、蟹工船であった笠戸丸がカムチャッカ半島ソ連に撃沈されるまでの生涯を追っている。50年の時間をかけて様々な新聞の記事を調べ、様々な人に話を聞き、様々な文献を参照している。さらに、「神戸コレクション」によって時々の位置を追跡できるようになったことが、調査の力になっている。ものすごい時間をかけた蓄積のなせる技であり、また、特にインタビュー調査が70-80年代に多いように時宜を得た調査でもある。今となっては証言できる人はほとんどいなくなっているだろうなあ。少なくとも、同じ方法で調査することはできないだろう。
 しかし、この笠戸丸、本当に波乱万丈としか言いようのない生涯を送った船だ。
 まずイギリスの太平洋汽船会社が注文した貨客船を、ロシアの義勇艦隊が建造途中で購入、カザンと改名。1900年に竣工し、その後数年間、黒海ウラジオストック間の兵員輸送に従事する。日露戦争の開戦によって旅順に閉じこめられたカザンは、旅順の陥落によって日本軍に鹵獲される。ここまでで100ページほど。
 続いては、海軍から東洋汽船に貸し出され南米への移民船となった時代。1908年まで。ペルーやブラジルへ航海している。しかしまあ、印象的なのは「移民会社」の計画のずさんさ。結局、奴隷的な労働に耐えられず、逃げ出したり、多数の死者を出したり。まさに、奴隷労働力の代替であったことが分かる。あとは、最初のブラジル移民団を乗せたために、その関係者について詳しく言及されているが、主だった人を見るとけっこうきっちりと教育を受けた、教員や下級官吏クラスや旧村役人階層の人々がけっこういたようなのが興味深い。南米では奴隷の代替となる低賃金労働力を求めていたのに、募集に応じた移民はむしろ旧制中学を卒業したような人が一旗あげに行った、そのあたりのミスマッチは大きかったのだろうな。このあたりで半分。
 1908年に海軍に返還された笠戸丸は、大阪商船に貸し出され、改装を受けたうえで台湾との定期航路に就役する。この時代が一番華のある時代だったし、期間的にも1927年までの19年間と笠戸丸の経歴のかなりの部分を占めるのだが、普通の往来している限りはあまり取り上げられない運命にある。本書でも、事故や乗った人の話がいくつか、40ページほどで語られている。
 その後、1927年の南京事件時に病院船に徴用され、さらにインド航路で運航、1930年に大阪商船から売却される。その後は、遠洋漁業での工船として活動する。最初は肥料用のイワシの粉末を製造する工船として使われたが採算がとれず、サケマス工船を経て、1938年からは蟹工船となる。太平洋戦争によってカムチャッカ周辺が危険になる1943年まで北洋での漁業活動に従事。その後は、大陸との物資輸送に従事している。1945年8月にカムチャッカ半島で生産された海産物の積取に行き、現地でソ連の参戦によって撃沈され45年の生涯を閉じる。北洋での工船になった船には、日本海海戦バルチック艦隊を発見した信濃丸などけっこう有名な船が晩年を過ごしているのが興味深い。あと、テーマの問題や経営者側の資料を中心に見ているため、井本三夫『蟹工船から見た日本近代史』とはだいぶ違う雰囲気になっている。
 「大日本帝国」の外縁をなぞるような、そんな現場にずっと居合わせたという点でも、非常におもしろい生涯をたどった船だなと思う。

 まず、笠戸丸移民の耕地での住居は煉瓦作りの長屋構造だった。移民は、渡航費が払えたくらいだから、日本ではある程度の暮らしをしていたはずだ。それが寝台ではなく、土間に干し草を敷いて休み、窓はガラスでなく木製の蓋を跳ね上げて外気を入れるという原始的な住まいだった。p.174

 現に同時代の香山六郎は『香山六郎回想録』で「沖縄県移民代表の城間真次郎氏は沖縄師範卒、教員、村の助役、郡役所の書記だった。鹿児島県から来た西仁志氏は中学校卒で政治の話もできる人、高等小学校卒後に巡査の原源之助、丸野政義氏は陸軍伍長、山口県出身の宝来虎之助氏は警部、愛知県の芳賀徳太郎氏は警察剣道師範、高知県からは長野陸軍野砲曹長、臼井介人氏は商業学校卒」というように各人を描写している。明治時代、こうした履歴の人々はそれぞれ地域の指導者だった。p.187

 笠戸丸の移民船時代を調べて、日本の移民政策が日露戦争などに比べると、はるかに行き当たりばったりで、事前調査も危機管理も不十分だったことが見えてきた。日露戦争で日本は、事前に日英同盟を結び、軍艦や陸戦兵器を整備し、無線電信を活用できる要員を短時間で養い、明石元二郎陸軍大佐に代表される諜報工作を準備した。その同じ日本が、国策だった移民事業を推進するにあたっては、事前研修や調査、危機管理をほとんど移民会社にまかせ、行政は後手に回った。ペルー移民は粘り強く生きるしかなかった。そして、行政は多少の経験は積んだものの、充分な反省も情報収集もしないまま、1908年にはブラジル移民を許可し、大勢の移民を苦しい目にあわせた。そして、その同じ失敗が、ろくに調査せずに石ころだらけの土地に移民を投入した1960年代のドミニカや、お役所仕事でトラクターは供給しても、燃料は不足だったボリビアの耕地などで繰り返された。ブラジルは戦後も道が整備不良のため、電信柱の列に沿って深夜、耕地と市街を往復するうち、倒れた電柱のために地面を這っていた電線に触れて、さびしく感電死した移民がいた。彼が苦悶して転げまわった様子が泥だらけの地面にはっきりと残っていたという。
 ペルーでは今村良治外務書記生をはじめ、森岡商会によって、まだしも移民事業の流れが記録されている。これに比べると、ブラジル関係の資料は、多くが後年の回想録がもとで、そこには事実と想像が入り混じり、はっきりとしないことが多い。私たちは歴史から学ばなければならない。過去を大切にしなければならない。p.192-3

 基本、海外移民は棄民だからな。しかも、戦後の方がおそらく酷薄だったんじゃないかね。20世紀初めの移民もでたらめだが…
 メモ→若槻泰雄『外務省が消した日本人:南米移民の半世紀』

 魚糧工船から蟹工船時代の笠戸丸の資料を集めるのは、今や難しくなった。もう「蟹工船」という言葉が死語に近い。乏しくなった目撃証言か、古新聞の記事しかない。蟹工船は戦後、北洋から日本が締め出されたので、大手の水産会社でも資料はすぐに出てこない。p.315

 こういうのも資料が散逸してしまっているのだな… 

 小倉氏はまた、本多勝一氏の取材にも応じたことがあり、「1938年から作業員として乗船、コンベアーで流れてくる蟹の脚を包丁で切るのが仕事だった(原文ママ、ベルトコンベアーは中甲板の缶詰工場にあり、上甲板の包丁工程には無かった)。作業員の虐待はもう無かった。それでも陸上なら助かる程度の病人が何人か死んで水葬にされた」と語っている。p.320

 かなり劣悪な環境であったことは確かなようだ。