白幡洋三郎『大名庭園:江戸の饗宴』

大名庭園―江戸の饗宴 (講談社選書メチエ)

大名庭園―江戸の饗宴 (講談社選書メチエ)

 庭園の歴史の本を何冊か借りてきたので、当面その関係で。
 江戸の大名屋敷に造られた庭園を再評価し、庭園史の中に正当に位置づけようとしたもの。京都中心の庭園史、視覚体験中心の庭園観を否定しつつ、そのような考え方が定着するに至った理由にも言及している。江戸時代初期の大名庭園形成からその消滅まで、その機能の変化も見ながら議論している。ずいぶん昔に読んだことがあるが、再読。
 基本的には大名庭園が将軍家や大名、家臣団との社交のための装置であったことが強調される。江戸時代の初期には将軍の御成りを迎えて、茶事を中心とした儀礼が行われた状況が指摘される。これは京都の桂離宮も同様であったことが指摘される。第二章では主要な大名庭園の当時の情景復元しつつ、山里をモチーフとしたものが中心であり、「わび茶」の思想に沿ったものであったこと。後のような芝生や池による明るく伸びやかな庭園ではなかったという。
 第三章は各地の城下町の大名庭園について議論している。兼六園、後楽園、偕楽園、情趣園などを取り扱っている。もともとそれらの庭園が藩主や家臣団が社交に使う閉鎖的な庭であったことや長い時間をかけて形成されたものが多いこと、さらにはそれぞれの性格の違いなど。
 第四章は遊興、社交の場としての庭園について。途中、ヴェルサイユ宮殿の庭園との比較も含めて。十一代将軍家斉の「園癖」や、尾張藩の戸山荘での御成りから、形式ばらない宴会と遊興の場となっていく状況。さらには大名の趣味を通じた交際の場、あるいは家臣団を招いての園遊とサービスなど、人間関係の維持に利用されたあり様が活写される。
 第五章はそれまでの庭園史の見方を批判しつつ、大名庭園は視覚的に体験するものではなく、さまざまなレクリエーションを行う「実用」の装置であり、視覚的なだけでなく、体験するものであると指摘する。その上で汐入の庭園である浜離宮芝離宮を事例に、単に宴会だけでなく、水練や馬事、釣り、狩猟などさまざまなスポーツの場でもあったことを指摘する。一方で、18世紀後半以降に、庭園の「拝見記」が多数出版されるように、拝見すること、視覚と回遊を中心とする庭園観が発展していく状況も現れる。
 終章は大名庭園の消滅とその継承。明治維新によって大名屋敷はさまざまな政府施設や軍事施設、工場として利用され、ほとんどが消滅していくこと。ごく一部が、明治政府の有力者に購入されるなどで残されるが、よほどの幸運でもないかぎり残らなかったこと。社交の場、園遊の場としての庭園は明治の元勲や財閥の別荘として受け継がれたこと。小川治兵衛(植治)による、山形有朋や住友家の関西の別荘の庭園に引き継がれたと指摘する。


 以下、メモ:

連歌衆・乱舞衆」と書かれているから、連歌を楽しむ人びとや舞いを専門にする芸能者なども、お伴していた。静かな茶会、儀式ばった振舞いではなく、茶屋で食事・酒を楽しみつつ連歌を行い、室内あるいは屋外では、にぎやかな舞いが披露される。そんな、ちょっと乱痴気パーティーにも似た集いであったと思われる。もちろんその中心には茶事があったのだが、それはまた、政治的な色を帯びた密談をも含んでいたことだろう。桂離宮に限らず別荘の庭園は、遊興の装置と、儀礼の装置の二つの側面から見ておく必要がある。儀礼の装置は政治的装置でもあり、いわば〈遊興-儀礼(政治)〉は〈遊び-仕事〉という図式でも表現できよう。そしてこの全体をとらえるとすればやはり〈社交〉の装置というのがはっきりとわかりやすい表現となる。p.42


 御成の際のぜいたく、大量の消費については近世考古学の成果からもあとづけられる。東京大学医学部附属病院の改築工事に際して、1984加賀藩本郷邸の一角を占めていた大聖寺藩邸跡から、御成の宴会の遺物が大量に見つかった。それは素焼の杯であるかわらけや木製品の折敷や曲物だった。これらが宴会終了後、大量に池に投棄され、それが出土したのである。これらの宴会のための食器類は使い捨てであったらしく、御成がいかに濫費をともなうものであるか、その一端が考古学によって証明された。(藤本強『埋もれた江戸』)p.87


 大名屋敷に生れた庭園は、茶事の場の性格が強かった初期から、それなりに回遊の機能を備えた庭園ではあった。しかし江戸湾の海べりに生れた潮入りの庭こそ、回遊式庭園の性格をもっとも強烈にうちだし、またその回遊の欲求を視覚体験に向けさせる力をもっていたのではないか。p.210