飛田範夫『庭園の中世史:足利義政と東山山荘』

庭園の中世史―足利義政と東山山荘 (歴史文化ライブラリー)

庭園の中世史―足利義政と東山山荘 (歴史文化ライブラリー)

 室町将軍足利義政の山荘であった銀閣寺(東山山荘)の庭園を中心に、それにつながる庭園史の文脈やどのような過程で建設されたかなどを追及している。足利義政像が紋切り型というか、奢侈や社交の政治的な意義といった所まで踏み込めていないため、そのあたりがいまいちなのが残念な所。
 足利義政の生涯。東山山荘の庭園に影響を与えた諸庭園の検討、西芳寺の庭園や歴代の足利将軍の館の庭園について。東山山荘の造営から義政死後どういう動きをたどったか。山荘建設のための組織や経費、資財の調達。中世庭園のまとめとなっている。
 既に室町時代の庭園も回遊式といえば回遊式だよなあ。あちこちの亭をめぐっているし。あと、この時代の屋敷や庭園の運命のはかなさ。将軍の代替わりで、あっという間に館が放置される状況とか、東山山荘の庭園もあっというまに荒廃していくあり様とか。庭はともかく、建物も耐用年数がすごく短い印象。主人がいなくなると、庭石を持って行ったりするし。あと、この時代の京都の町並というか、定住のあり方もどうだったんだろうなあ。なんかすごくまばらな感じなのだが。
 興味深いのは、東山山荘の造営費用や資材・人員の捻出の仕方。全国の守護に費用を負担させ、後には山城国の寺院を中心とする荘園領主に費用や人員を供出させている。また、建設のための事務に幕府の奉行らが関わっている事を考えると、屋敷や別荘の造営が、公的な意義を持つ事業だったのだなと考えさせられる。また、庭園の庭石や樹木も、京都や奈良の寺院などから献上させている。必ずしも喜んでという訳ではないが、要求に従っているところを見ると、ある程度認められたことだったようだ。著者は「庭石・樹木を略奪するという天皇や将軍の横暴」としているが、むしろこの時代には建築を含む奢侈や連歌会を含む社交が、国制的にも重要な役割を果たしていたのではなかろうかと考えさせられる。


 以下、メモ:

 しかし、室町時代には樹木を販売する業者が出現している。『看聞御記』の永享九年(一四三七)四月二十四日条に、「商人躑躅を持参す。西向に植う」と書かれている。京都の伏見宮後崇光院)邸に植木屋がツツジを持ってきて植えたということだが、翌年四月十六日条にも同様の記載がある。嘉吉三年(一四四三)二月一日条には、
 桜木は得難き間、千本に商買の木ありと云々。隆富朝臣・重賢朝臣検知に羅り向う。八重桜数本あり。その中の一本を取る。但し遅桜なり。
と述べられている。京都の千本通りに樹木を販売する者が存在していたことになる。遅桜というヤエザクラの変種まで扱っているのだから、かなりの種類の樹木を販売していたのではないだろうか(飛田『日本庭園の植栽史』)。
 五十年ほど後の『後法興院記』の文亀元年(一五〇一)二月十九日条にも、「この亭の懸り(蹴鞠用の樹木)の松を栽う。千本より召し寄す」とあるから、義政の存命中も千本通りの植木屋は存続していたことになる。気に行った樹木を植木屋で購入できたはずだから、義政のわがままは度が過ぎたということになる。p.164-5

 京都なら商売になったのかもな。需要は十分にあったはずだし。ただ、義政が植木屋を利用していないのは、費用の節約とか、支配関係の確認といった類の事情があったんじゃなかろうか。