中尾真理『英国式庭園:自然は直線を好まない』

 イギリスの庭園文化を通観する書物。「英国式庭園」が出現するまえの古代から近世の展開、18世紀の風景式庭園の出現、19世紀の折衷式、19世紀後半から今世紀のコティジ・ガーデンへの変遷という展開を描いている。個人的には、イギリスの庭というと、ガーデニングターシャ・テューダーの庭を思い浮かべるかな(あれはアメリカだけど)。コティジ・ガーデンのイメージが強い。基本、大規模な造園の話に、小規模な園芸の話が混じるような感じ。
 第一章から第三章は、「英国式庭園」出現までの前史。ローマの庭園文化の導入、修道院を中心とする中世の芝生の小さな庭。テューダー朝時代の庭園と園芸ブーム。17世紀のフランスとオランダからの影響。特にヴェルサイユ宮殿の整形式庭園の影響。これらの時代を通じて、庭園は方形の区画に囲いこまれたものであった。また、さまざまな装飾や装飾刈り込み(トピアリ)が多用されたものであったという。
 第四章では、いよいよ英国式庭園の出現。18世紀になると、イギリス式の代名詞となる風景式庭園が出現する。それまでの囲いを取り払い、地方の邸宅の地所全体を庭園とする広大なもので、本書ではこれがホイッグ的価値観を反映したものであると指摘する。ブリッジマン、ケント、ブラウン、レプトンといった著名な造園家とそれぞれの段階のあり方が紹介される。職人出身のブラウンはともかくとして、風景式庭園の始祖となったケントやレプトンが画家あるいは絵画に慣れ親しんでいたというのが興味深い。また、風景式庭園で形成された景観をモデルに、イギリス全体の自然や景観が作りかえられていったという指摘は考えさせられる。あと、庭を作るために、もともとあった村を取り払ってしまうってのがすごいな。江戸の大名庭園でも、そんな事例があるけど。
 第五章は同じ時代の園芸文化全般に関して。庭師があまり良い待遇ではなかったという話や、植民地主義による外来植物の導入とそのために派遣されたプラントハンターたちの話。外来植物を栽培するための温室やオランジァリーの話やオレンジ・パイナップルへの憧れなど。珍奇な植物に対する欲望ってのは洋の東西を問わないもんだな。
 第六章は19世紀、ヴィクトリア朝の時代。シンプルな風景式庭園が飽きられ、以前の装飾刈り込みや整形式花壇が復活し、それらと折衷したような庭園がつくられるようになる。また、同時代には園芸ジャーナリズムが登場普及し、芝刈り機や温室が普及する。この時代以前は、人の手で芝を刈っていたというのが、想像を絶する。現在も見られるようなカーペット・ベッディング形式の花壇もこの時代に出現する。一方で、これらへの派手な庭園の反発から、ひなびた田舎家を演出した、シンプルなコティジ・ガーデンが19世紀後半から20世紀にかけて出現する。ウィリアム・ロビンソンやガートルード・ジーキルといった造園家が紹介される。
 終章は20世紀以降。ヴィクトリア・サックヴィル=ウェストの庭園が紹介される。幾何学的なプランに、コティジ・ガーデン風の草花主体の自然な植栽のスタイルが特徴という。このあたりの庭は現代的に理解しやすい。あとは、さまざまな文学作品からの引用を交えながら、個人の庭園の衰退のありさま、そしてそれに代わるものとしてのさまざまな公園の整備に言及される。
 時代が古いほど、社会とか、文化史で、紋切り型な議論があって、ちょっと微妙に感じる部分もあるが、後半に行くほどおもしろい。


 以下、メモ:

 エリザベス一世は有力貴族の派閥間のバランスを巧みにとって政治を行った。治世の前半にはバーリー卿ウィリアム・セシルとレスター伯ロバート・ダドリーの二大派閥が女王の恩顧を競った。女王は締まり屋だったので、自分の庭に費用をかけることはしなかった。彼女は廷臣たちの屋敷に出掛けていくのを好み、廷臣たちはまた競って大庭園を造園師、女王をもてなした。p.60

 このあたり、江戸の将軍が大名庭園に御成りを繰り返したのと、似たような雰囲気だな。自分でも楽しんだのだろうけど、政治的な儀礼の側面も強かったのだろう。あと、結局、エリザベス一世が後継者を決められなかったあたりに、この時代のイギリス王権の弱さが見えるよなあ。

『家政一〇〇の心得』の内容は園芸に限ったものではなく、家政一般にわたっているが、庭に関する心得もたくさん含まれていた。それを見ると小さな庭を持つ当時の普通の人々が、どのように庭を日々の生活に役立てていたかがわかる。たとえば、三月の項には「台所向きの種、青物(ハーブ)」として、マリーゴールドサクラソウ、全種類のスミレなど、四三種の植物の名前があげられている。マリーゴールドを食用にするなど、今では信じられない話だが、「料理用マリーゴールド」は広く食べられていた。スミレも食用にされたのである。p.72-3

 このあたりの「野菜」の歴史ってのは、ちょっとおもしろそうではあるな。現在、普通に食べられている種も中世にはユーラシアに無かったりするし。

 だが、敷地全体を風景として見る大きな規模の改良が行われると、これまでは手をつけられなかった荒れ地までが人の手を加えられ庭として意識されることになった。そこで、湿地・沼地などの不毛の地も干拓・植林などの「改良」が施され、敷地全体が理想的な自然へと変えられていった。風景式庭園は自然を規範にとったが、ブラウン以後は逆に、風景式庭園をモデルにイギリスの自然風景が整備されていったとも言えるのである。私たちが「イギリス的な風景だ」と思っている絵葉書や版画でおなじみの田園も、実は大部分がブラウンやレプトンの風景を念頭に置いて作り替えられた自然であると言ったほうが正しいのかもしれない。
 風景式庭園がそこまで広く受け入れられた理由として、居心地の良さ、快適さを第一に考えた庭であることが考えられる。もともと風景式庭園絶対王政のもとに発達したフランスの整形式庭園への反動からできたもので、新興ブルジョア風、ホイッグ的な性格をもっている。そのため、新興階級特有の雄大なスケールへの憧れと同時に、きわめて実質的な側面を持っていたのである。p.146-7

 うーん、いまどきのイギリスのジェントルマン理解からすると、だいぶ齟齬があるような。あと、前段に関してはアラン・コルバンの『風景と人間』あたりを読む必要がありそう。

 このように煤けた、お世辞にも健康的とは言えない労働者の町にも、美しい花を育てて園芸を楽しむ人はいた。それも、特別熱心な栽培家たちである。花の細かな部分にまで神経をはらって栽培する、このマニア的な園芸家たちのことを「フローリスト(花卉栽培家)」と呼んでいる。
 「フローリスト」は庭でひろく園芸を楽しむ人々ではない。ただ一種類の花に情熱を捧げ、献身的な世話をして、新しい品種を作り出し、完璧なまでに美しい花を追い求めることで有名だ。彼らには広い庭は必要がなく、鉢植えでも栽培は可能だった。例えば、カーネーションのフローリストなら「茎がまっすぐ丈夫で、少なくとも三〇インチから四五インチの長さがあり、花は直径が三インチ以上、形のよい花びらは多すぎもせず、少なすぎもせず重なり、萼がしっかりと花を支えている」カーネーションを生み出そうと、さまざまな秘策を練った。週に一回、同好の者が集まってクラブを作り、それぞれの花のシーズンには親睦を兼ねて品評会が催された。p.213-4

 日本でもこういう人々はいるなあ。変化朝顔とか、肥後六花なんかは結構すごい。私は飽きっぽいので、園芸には向かないのだが。