藤倉郁子『狛犬の歴史』

(ISBNなし?)
 ライオンのモチーフが、どのように狛犬に変化していったか。後半はさまざまな狛犬の紹介。借りた時にはそれほど期待していなかったが、なかなかおもしろかった。
 中近東のライオンをモチーフが中国を経て日本に入ってくる。仏像と共に、その台座や乗獣として、獅子が入ってくる。また、中国の宮廷儀礼に使用される什器として、玉座の守護獣として獅子・狛犬が宮廷に入り込む。最初は、守護獣、あるいは御簾などが風で翻らないようにする風鎮として置かれた。また、伎楽に獅子・狛犬の舞があったそうだ。
 神社に獅子・狛犬が置かれるようになったのは平安時代の記録からすると、11世紀前半のようだ。この時期、参道ではなく、御帳台や神殿の軒先に置かれて、材質も木製のものが多かったようだ。古代から中世にかけて、絵巻物などから、狛犬の存在を追うことができる。江戸時代に入ると、中国の宮中の設備であるという由来が忘れ去られたのか、国学的なナショナリズムから由来を捏造した成果、狛犬記紀神話と結び付けられるようになる。海幸山幸説話から隼人と結び付けられたり、神功皇后の朝鮮征服説話と結び付けられるようになる。それと共に、獅子・狛犬から狛犬へと意識が変わっていくのではないかと指摘している。
 後半はさまざまな狛犬の紹介。木造の狛犬重要文化財に指定された石造狛犬、また、石工の丹波佐吉と川六の作品群の紹介、陶器や金属製の狛犬などを、個々に紹介している。このあたり、もっと写真が欲しかったというのが正直なところ。あと、想像以上に、いろいろな種類があるのだなとも。石造の参道狛犬という存在は、獅子・狛犬という広がりの一部なのだなと感心した。社殿や拝殿の軒先にいた狛犬が参道に出てくるのは、桃山から江戸初期あたりと理解していいのだろう。現在に残る室町以前の石造狛犬は、比較的小型なのを見ても、社殿のなかに配置されていたことがうかがわれるし。しかし、参道に鎮座するに至る契機はなんだろうな。東照宮や籠神社あたりから広がったのだろうか。
 あと、こういう広がりからみると、熊本の狛犬文化は比較的貧しいというか、そこが浅いように感じる。


 以下、メモ:

私は更級日記の作者が、
 常に「天照御神を念じ申せ」と言ふ人あり、いづこにおはします神仏にかはなど、
というところがあって、平安時代には天照大神は知られていなかったのだなと思ったことがある。今また『更級日記』を改めて繙くと、作者の藤原孝標の女は、長暦三年(1039)に祐子内親王後朱雀天皇の女子)に仕えたとある。一〇三九年とはまさに伊勢神宮狛犬が奉納された時である。宮中では伊勢神宮や、天照大神のことが問題になっていたのであろう。p.93

 メモ。この時期、アマテラスの知名度が低かったという話。

藤崎八幡宮 熊本県熊本市井川渕町
あ形  六十五糎
うん形 六十三・五糎
室町前期 楠一木造 彩色
あ・うん形ともに角をもつ古い狛犬としては珍しいものである。たてがみはあ・うん形とも細かい巻毛がつけられ、あごの下にも一列巻毛が並んで彫られている。尾は持ち出しをつけて七つにわかれ上がっている。胸の張りかたに室町期の特長がある。両方に角のある木造狛犬は今でも但馬の出石神社や、出雲の日御碕神社に置かれている。p.155-6

 へー、藤崎八幡宮にも室町期の木造狛犬があるのか。つーか、西南戦争の戦火からよく守ったな。

 もっと私をがっかりさせたのは、大阪岸和田市にある兵頭神社である。ここの狛犬文久二年に作られたもので、佐吉の狛犬としては一番の大きさの九十八糎ある。『狛犬の研究』の中の写真を見ると、たてがみの巻毛が模様のように美しく並んでいて、尾も内側(体についている方)に小さい巻き毛を並べて、石質も良いようであるので楽しみに出かけて行った。ところが神社の前に立つと鳥居も、垣根も新しくなっていて様子が違う。参道に入ると真新しい巨大な狛犬が置かれてあった。境内中くまなく歩いてみたが、佐吉の狛犬とおぼしきものは見出せなかった。社務所で伺うと、平成五年に社務所を新築し境内を整備した時、古い狛犬を廃棄したとのことである。なかなか石造狛犬の価値というものはわからないものだから、新しい物の方が良いと思われるのであろうが、本当に惜しいことをしたものである。
 こんなことからも、石造狛犬を早く調査して、良いものは、「大切にして下さい」と声を大にして言ってあげないとだんだん失われてしまうのである。(狛犬の寸法は『狛犬の研究』奈良文化財同好会 を参考にさせていただいた)p.224

 名工の作品もあっさり捨てられてしまう現実。つーか、江戸時代にまでさかのぼるものをあっさり廃棄する感性もすごいな。由緒とかを誇示する手段だろうに。そう言えば、六嘉宮もそんな感じ臭かったな。