NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言:軍令部・参謀たちが語った敗戦』

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦

 1980年代に、かつて軍令部に勤務していた参謀OBを中心に、太平洋戦争時の海軍の行動を検証する「海軍反省会」が開かれた。それを録音したテープを検証し、開戦・特攻・戦犯裁判で、日本海軍の中枢にいた人々がどのような判断を行ったかを検証している。テープと存命者や遺族からの証言をもとに、検証されている。しかしまあ、この「海軍反省会」に参加した人々って、結局旧海軍士官としてのアイデンティティを維持し、士官どうしの人間関係を維持していたわけで、自己や周囲の人々を根底から否定するような評価は難しかったのではなかろうか。本書でも、本当に反省しているのといった言葉があるが、実際、どこまで「反省」「検証」できていたのだろうか。
 本書では、現在の組織人が似たような状況になった場合に、どのような行動ができるのかといった観点から、取材した人々の感じたことを前面に出した内容となっている。


 第一章は「海軍反省会」という資料との出会いについて。
 第二章は開戦に至る経緯。軍令部の中枢にいた人々がどのように考えていたかを追っている。海軍の予算獲得と権限拡大のために、アメリカとの摩擦というチキンレースを続けたこと。開戦が間近に迫ってくると、対米戦争の準備ということで予算を獲得してきたにもかかわらず、これでは勝てないと公言すれば陸軍側に一気に予算や資材を奪われかねないという組織防衛の論理から、海軍は主戦論に走った状況が明らかにされる。大方の人がアメリカと戦えば負けると内心では考えつつも、「空気」によってそれを公言できなかったという。このあたりの「空気」の問題に関しては、これを日本社会論、日本特殊論に還元してしまってはいけないと思う。2005年のハリケーンカトリーナで起こった災害の際には、FEMA国土安全保障省の下に置かれ権限が縮小したことが被害の拡大や救援の遅れを招いた。このFEMAの権限縮小は、「災害対策は時代遅れ」と言う論理でおこなわれたという。あるいは、アメリカがイラクに侵攻する際、核兵器開発が理由にされたが、実際には存在しなかったし、それはある程度アメリカの情報機関でも分かっていた。それにもかかわらず、戦争は強行された。このような「空気」というのは、どこの国でもあるのではないだろうか。組織に属するかぎりは、こういうのは避けて通れないことなのかもしれないと思う。あとは、軍令部が海軍省から権限を奪うために伏見宮を引っ張り出してきた話や軍令部の作戦課が戦時にはスタッフ不足の状況にあったことなど、興味深いエピソードも。
 第三章、第四章は特攻に関して。誰が特攻という、確実に兵の命を失われる作戦を立案・準備したか、肝心なところが意外にわかっていないという。それをめぐる旧海軍士官の「やましい沈黙」。第二部長であった黒島亀人あたりが主導で、軍令部第一部長だった中澤佑、課員の源田実も承認した作戦であった。それにもかかわらず、戦後、中澤・源田どちらも、現場の自発的提案だったと述べていること。回天や震洋といった小型艇を利用した特攻に注目すると、昭和19年の初めあたりには軍令部主導で準備が進められていたという。具体的に、どのように構想が固まっていったかに関しては、結局、分からなかったようだが。第四章は、特攻に関わった軍令部の指導者や現場で生き残った人々の戦後。
 第五章は、軍令部がどのように戦後の軍事裁判に対応したかを描いている。海軍は結局、A級戦犯で死刑判決を受けた人間を出さなかったが、これは、軍令部転じて第二復員省の組織的な隠ぺい工作の結果だったことが明らかにされる。天皇に累を及ぼさない、海軍大臣であった島田繁太郎を死刑にしないために、組織的な工作が行われた。ニュルンベルク裁判を研究して、「平和に対する罪」と捕虜虐待などの通例の戦争犯罪が合わさると、死刑になることが多いことから、軍令部が捕虜虐待などに直接かかわっていたことを否認する方向で、証言の統一や証拠隠しが行われた。結局、艦隊司令官などの上級指揮官を守って、中級の現地指揮官に責任を負わせる方向で行われた。「スラバヤ事件」では、死刑判決を出した法務官を逃亡させるようなことまでしている。あとは、海軍による現地人や捕虜の虐殺も凄まじい。潜水艦で撃沈した商船の乗員を殺戮する「潜水艦事件」とか、住民を虐殺したサンソウ島事件とか、なんか呆れるレベル。
 こうして見ると、やはり当時の体制の道徳的な退廃は感じるなあ。まあ、組織が行った行為の責任を取るのは、確かに難しいことではある。福島原発の事故といい、福知山線の事故といい、リーマンショックといい。ただ、教育勅語で教育を受けても、このレベルってのは肝に銘じておくべきだと思う。


 以下、メモ:

 軍令部の権力が拡大した背景には、一人の皇族の存在があり、この問題に正面から向き合う必要があると主張したのである。
「つらつら考えるに、開戦一年前の永野、嶋田両大将のことを批判するだけでは、それははなはだ範囲が狭いのであって、私のまあ、経験、所見から申しますると、大正二年に兵学校に入った、(略)アメリカとは必ず戦争をするんだというような風に、私どもは教育されておったのであります」
 そして野元元少将は、言葉を選びながら続けた。
「こうならしめたさらにその原因は何であるかというと、もうこういう下地ができていると。それが海軍の空気をつくっておったということ。もう少し具体的に言いますならば、人事のことについて、(皇族の)博恭王が九年間も軍令部総長をやっている。ああいうのはどうも妙な人事である。殿下がひとこと言われると、もうそれは“はい”と。(略)言い過ぎかもしらんけど、もう少しその、皇族に対する考えということは、もう少し、あるブレーキをかけるような空気がなかったのを、はなはだ遺憾に思うのであります。これは、海軍としては大きな意味の反省のひとつにしなけれならないことである」
(昭和五十八年九月十四日 第四十六回反省会)p.74-5

「昭和八年に軍令部の改定があるんです。それまで軍令部は、どちらかというと海軍省の下にあるというような関連でずっときている。(略)軍令部の権限を強化するということになる、昭和八年にそれ(法令)が通るんです。で、昭和七年に伏見宮殿下が軍令部総長になっていらっしゃる。(法令が)通ったあとですね、海軍省、要するに海軍の内部で、いわゆる良識派という人たちが、次から次に辞めていくわけです。(略)末国さんはどうですか」「私はそれがね、大東亜戦争の最初の原因がその付近から出るんじゃないかと思う」(木山正義元中佐)
海軍大臣が持っていた力を、少し軍令部へ割いた程度で、実際には、手のひらを返したようには違っていないと思う」(末国元大佐)
「それはね、私はなぜ強いかというと、バックが違うから。バックが宮様ですもん。だから人事でもなんでもね」(木山元中佐)
「それ(法令)を通したいために、宮様を高橋三吉さん(軍令部次長をつとめた海軍大将)が持ってきたんだから。これ、謀略ですよ」(末国元大佐)
(昭和五十五年七月二十五日 第四回反省会)
……
 まず、このやりとりにあった「軍令部の改定」の中身を調べてみた。確かに、伏見宮元帥が軍令部長に就任した翌年の昭和八年に、海軍に関する二つの重要な法令が定められていた。
 九月の「海軍軍令部令」と翌月の「海軍省軍令部業務互渉規程」である(以下、前者を軍令部令、後者を互渉規程とする)。
……
 より重要なのは、互渉規程の第三条である。そこには「兵力量に関しては軍令部総長之を起案」とある。軍艦の数や装備といった兵力量に関して、軍令部が主導することを明記したのだ。この条文が、日本の進路にとって決定的な意味を持つことになる。p.80-1

 軍令部が自己の権限を拡大するために皇族を利用したこと。このような動きに、昭和天皇は反発していたことなど、いろいろ興味深い。

 しかし一方で高田元少将は、海軍の対米戦に対する見通しは「一、二年は持つ。三年延びたら負ける」というものだったと語っている。
 それではなぜ、武力行使の具体的な条件まで掲げて、「戦争決意」を迫ったのだろうか。
「それはね、それはね、デリケートなんでね、予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月間際になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです」
「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」
 「戦争決意」は、見せかけだった――。この言葉を信じられない気持ちで聞いた。と同時に、ある研究者の言葉を思い出していた。雑談の中でのひと言だった。
 「軍人であってもヒト、モノ、カネを取れる人が出世していたのが実態なんですよ。武人としてのプライドがあるから自分から話しませんが、そこは今の官僚と同じなんですよ」
 予算を獲得するには、なんらかの根拠が必要である。軍にとってのそれは、軍事的衝突の危機である。日米の危機が深刻であればあるほど、海軍は軍備の充実を求めることができ、より多くの予算を手に入れられる。限度がきたら、日米交渉をまとめる。それが高田元少将たちのねらいだったのだ。
 しかしその「限度」を見誤ったらどうなるか。何百万、何千万の命がかかっているという自覚が、「エリート中のエリート」たちにあったのだろうか。彼らは、組織内で評価されるために、予算獲得という「業務」に埋没していただけではなかったか。
 海軍は国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることが、自己目的となっていた。まさしく、海軍なって国家なし、である。p.108-9

 まあ、近代の軍隊ってのは官僚組織だからね。だからこそ、シビリアンコントロールが重要なんだよ。
 しかし、太平洋戦争直前の海軍が、一番やってはいけないチキンレースをやったよな。この手の危機を利用した権限拡大で自爆した事例ってのは、いくらでもあると思うのだが。

 笹本氏は「大日本帝国はまだ生きている」と言った。そして、自分の研究経験から、残されていてしかるべき旧日本軍の重要な資料が多く失われている事実に触れ「一番大事なことは、資料として残されていないのです」と指摘した。同時に、大日本帝国だけでなく「アメリカという壁」を忘れてはならないとも語った。アメリカは日本に比べて、情報公開が進んでいるように見える。しかし、七十年近く前の太平洋戦争の資料でも、国家にとって本当に重要だと判断した情報は、今でも決して表に出さないという。「恐ろしい国ですよ、アメリカは」、笹本氏は目を大きく見開いて私に言った。
 戦争とは、国家にとってもそれほど大きな禍根を残している。戦後何年経とうが「戦争指導者」側の取材をすることがいかに難しいか。だからこそ笹本氏は、私たちに「覚悟」を求めたのだった。p.156-7

 本当だよなあ。大事な情報が残っていない。あと、アメリカが表に出していない情報って何だろうな。

 敵艦に間違いなく体当たりするには、出撃当初に示された敵艦の位置や角度、自らの速度などから類推して方向を定めるしかない。潜望鏡は取り付けられているが、長さが一・二五メートルしかない。従って、潜望鏡を上げるには水面近くに浮上する必要がある。このため、潜望鏡を上げるのは敵艦からの探知を招く危険行為とされていた。潜望鏡はほとんど頼りにならず、頼りとなるのは唯一、ストップウォッチのような時計のみ。回転に乗り込んだ兵士は「あと何分何秒で敵艦に当たるはずだ」と自らの計算を信じて操作を行う。p.172

 回天の誘導方法。いや、これ当らんだろう。普通の魚雷を使っても、結果はたいして変わらないような気がする。よくもまあ、こんな兵器を考えたな…

「戦後、日本は、戦争関連の重要な公文書を悉く焼いてしまった。反省会の存在は貴重だ。しかし内容を聞く限り、本当に反省しているの?という気持ちは消えない」
 と語った。
 笹本氏の言葉を受けて、小貫が指摘した。
「仲間が死んでいく中で生き残った情けなさ、申し訳なさのために特攻について語れなかった現場の元特攻隊員たちがいる。彼らが包み隠さず語るようになるまで時間がかかり、それを逆手にとって、語るべき責任者たちが語らないまま時間がたち、鬼籍に入ったのでは?」p.175-6

 いや、まったくだ。

 また、操縦の技量について。特攻機の操縦で一番難しいのは、目標の敵艦に衝突する時だという。敵艦を見つけ、急降下していった後、飛行機の頭を上げて低空で突っ込んでいく操作は、大変高度な技術を要すると服部氏は指摘した。
 服部氏は、両手で操縦桿を力一杯握りしめる仕草をしながら、こう語った。
「こうやって全力で押さえつけないと、強大な揚力によって飛行機が浮き上がってしまうのです」
「揚力」とうう「浮き」の力が働き、目標とした敵艦艇を飛び越えて、その向こう側に墜落してしまう特攻機が多かったのだという。
 服部氏は、幹部たちが、そうした実態を知っていたとは思わないと語った。
 体当たりの失敗について、軍幹部は「目をつぶっていたから失敗したのだ」と叱責し、「体当たりの時は目をつぶるなかれ」というマニュアルを配った部隊もあったという。
「実際は、大和魂と攻撃精神だけではどうにもならない問題をはらんでいた作戦であるにもかかわらず、部下は部下で、いかに航空特攻が高度な技術を要するか、上官に具申することはできなかっただろう。特攻隊を送り出した幹部たちは、人間が操縦して体当たりするというこの戦法に対する、極度の思い込みがあったように感じる。この戦争のあまりの凄惨さに幻惑され、信仰に近い心情と願望があったのではないか」
 服部氏は、アメリカの資料等も集めて、特攻作戦の「命中率」についても研究を重ねた。結論として、航空特攻は、命中率十一・六%。これは到達した飛行機のうちの約半数だという。
 そして、水中特攻「回天」の命中率は、二%。敵艦を見つけてからほんの数秒で位置・進路・速度を観測し、その後は外界を見ることもできず、通信連絡もできず、後退も急停止もできない回天。「二%もよく命中したと言わざるを得ない」と服部氏は語った。
 数々の特攻兵器を界はtぐし、全軍をあげて特攻作戦を行っていた海軍幹部。しかし、彼らが作戦の戦果を分析していたことを物語る記録を見つけることはできなかった。p.181-2

 うーん、航空特攻についてはいいのか悪いのか分からん。回天はほとんど無意味だろう… 服部省吾「帝国陸海軍特別攻撃隊」1997か。防衛研究所の内部紀要に掲載されているそうだが。書誌情報がわからんな。『軍事史学』に「帝国陸海軍特別攻撃隊の実態分析」という論文を書いているようだが。

「およそ二年半の審理を通じ最も残念に思ったことは、海軍は常に精巧な考えを持ちながら、その信念を国策に反映させる勇を欠き、ついに戦争・敗戦へと国を誤るに至ったことである。陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分であると。p.290

 本書を読んで、もっと悪いような気がしてきたが…

 海軍の「潜水艦事件」とは何か。
 取材を続けると、事件は昭和十八年二月から十九年後半にかけてインド洋全域で発生していることが分かってきた。主にインド洋に展開する日本海軍の潜水艦部隊が連合国側の商船を魚雷で攻撃。沈没後、引きあげた非戦闘員を尋問の後に殺害、または救助をせずに洋上で射殺するといった、国際法に反する犯罪行為が多発していたのである。当時、連合国側から抗議が殺到し、裁判当時に判明しているだけでも商船十三隻が撃沈され乗員八百名余が殺害されている。この潜水艦事件に関しては、東京裁判でも多くの証言者・参考人が出廷し、審理が紛糾していることも明らかになった。
(中略)
 この事件で問題になったのは、潜水艦部隊による商船の撃沈および乗組員の殺害が、軍令部の指示、あるいは容認のもとになされたかどうか、という点であった。軍令部の指示だったとなれば、海軍大臣であり昭和十九年二月からは軍令部総長を兼務した嶋田繁太郎海軍大将は監督責任を問われ、有罪となる可能性が高かった。
 しかし東京裁判での審理の結果は、最終的に軍中央の関与は立証されず、嶋田海軍大将は通例の戦争犯罪については証拠不十分で、無罪となっていたのである。p.300-1

 この時富岡課長は敗戦後に問題になるからと、作戦指示は文書でなく口頭のみで伝達するよう金岡大佐に厳命したという。しかし、現場の指揮官・艦長たちが文書での命令にこだわったために証拠として提出された作戦命令所が残ってしまったわけである。作戦命令書は軍令部が指示し、三戸少将が作成した本物だった。三戸少将は偽証をして組織のトップを守ったのである。金岡大佐はその後、前線に赴任。昭和十九年六月、サイパンで戦死している。p.310

 なんというか、呆れるな。洋上で射殺って。しかし、無制限潜水艦戦そのものは、アメリカも採用した作戦だよな。そのあたりの法的な正当化はなされているのかね。

「陸軍の人にいわせると、海軍というところは俘虜の取り扱い、思い切ったことをやるもんですなと言われてる。それは海軍側の俘虜、そこに関する大胆さといいますか、証拠隠滅の、まあ大胆さの例を二つ、私がラバウルでもグアム裁判でも体験しておりますので、これをここで披露しておきますと、一つはウェーク島の事件でありますが、これはウェーク島に艦載機が、母艦の艦載機が猛烈な空襲をやったわけなんです。そうしますと、その、アメリカ海軍のやり方からすれば、空襲で、母艦の空襲でやった後に上陸をするということが大体常識と考えられるわけです。それで、グアム島には、設営隊の、シビリアンの設営隊の相当数を残しておったんです。それをですね、いよいよ明日米軍が上陸するというので、これは、内部で反乱されたは困るというので、俘虜を全部ですね、海岸に並べて、撃ち殺してしまったわけです。ところが一人だけ海へ逃れてですね、それで生き残っていたのが、あとでそれが出て来て、米軍のシビリアンの設営隊全員殺したということが分かったんです。それでもちろん死刑、えー、司令は死刑の宣告になったんですが。まあそういう生き残りを、俘虜全員を刺殺して殺して証拠隠滅を図るといったような、その、グアム島ウェーク島事件」
「もう一つは、ナウル、オーシャン。ナウル島の事件ですが、これは終戦後なんですよね。あの、ナウル島で、島民を疎開させるためによそへ船で送り出して、そして実は途中で死んでしまったり、要するに住民殺害の事件があったわけです。それが終戦後ばれると困るというので、終戦後残っていた婦女、老人から在島の住民全員をですね、海岸の崖の上に並べて、これも機銃で全部殺してしまったと。そしたらこれまた一人、海岸から飛び降りて、洞窟のようなところに残ったのが、豪州軍が上陸してきてから、ノコノコ出てきて事実を話したと。要するに海軍の人の、その、俘虜取り扱いに対する考え方は、陸軍の人にいわせると、まあ、実に思い切った大胆なことをするという、まあ、私が陸軍の人からも言われ、また自分も痛感した、えー、俘虜取り扱いに対する海軍側の感覚といいますか、あるいは戦犯に対する証拠隠滅に対する、私もラバウルで証拠隠滅を図ったんですけども、まあ、生き残りの人を全員殺害して証拠隠滅を図るといっても今のように二つとも生き残りの人が一人ずつ出て、あの、証拠がばれてしまったという事件がありました」p.338-9

「私はもっと前に、たとえばサンソウ島事件というのがあって、昭和十三年かな。サンソウ島事件というのがあって、私はその後行ったんですが、臭くて死臭が。あのサンソウ島に海軍の飛行場を作ったんです。飛行場を作るのに住民が居るもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人も殺した。(略)ようするに支那事変の頃から人間なんてのはどんどん。作戦が第一なんだ、勝てばいいんだ。そういう空気ででしたよ、あの頃は」p.341

 どこまで正確か知らんが…

「皆昇進することを最優先して、訓練でいい成績を上げようと、競って優秀な人材を部下に揃えようとした。しかし、実際戦争が始まると、そんな偏った編成はできるわけがない。実戦には通用しない訓練ばかりやっていたのだ」p.43

 ああ、ありがちだなあ…