原克『ポピュラーサイエンスの時代:20世紀の暮らしと科学』

ポピュラーサイエンスの時代―20世紀の暮らしと科学

ポピュラーサイエンスの時代―20世紀の暮らしと科学

 一般向けの科学雑誌を素材に、生活に密着した道具や飛行機、ラジオといったテクノロジーがどのように取り上げられているかを解析し、そこに投影されている欲望を明らかにしようとした本、でいいのかな。商品単位で議論が行われているため、全体を通じた問題意識が見えにくいような気がする。私の受信能力の問題もあるだろうが。この本そのものは読みやすいし、身近なものがどのように成立してきたのかという点からも興味深い。
 電動歯ブラシコンタクトレンズティッシュペーパーといった、現在でも身近なものが、1930年代にはすでに基本が出来上がっていたというのが興味深い。
 衛生と美容が結びつく電動歯ブラシコンタクトレンズ、生活の中に入りこんで日常的身ぶり(ハビトゥス)を変えるティッシュやトースター、飛行機と戦争、蓄音機やラジオが情報を受けとる感覚を変えていく様。欲望がテクノロジーと発明を駆動し、それがまた生活を変えていく。プリクラに近いような発想のものが、すでに1930年代にあったりするのが興味深い。しかし、研磨機のような代物で歯を磨いたら、何年か後に酷いことになりそうだが…


 以下、メモ:

 20世紀初頭、日本でもすでに体温測定は重要な医療行為であった、しかし今日とは違い、廉価で高性能の家庭用体温計が普及していたわけではない。かつて体温測定は医者の領分であり患者がすべきものではなく、体温計も大抵はドイツ製の「舶来品」で高価なものだった。ところが第一次世界大戦(1914-18年)を境に、敗戦国ドイツからの輸入が困難になってしまった。体温計不足時代の到来である。そこで叫ばれたのが国産体温計の開発であった。
 この動きを受けて1921年、東京に「赤線検温器製造会社」(現テルモ)が設立された。設立には北里柴三郎博士も尽力している。設立趣意書には「(国産)優良品の製造供給により国民保健の一助とし、且つ国家経済上に実益を挙げんことを所期するものなり」とある。目指すは、一部の富裕階級ばかりでなく、広く国民全般が近代的な医療行為を受けられるようにすること。そのための魁として、優秀な国産体温計を普及させることであった。p.35-6

 日本の工業化にさいして、第一次世界大戦によるさまざまな製品の供給途絶と競争相手の一時的な消滅というのは大きかったんだなと、改めて思う。「近代工業」って感じのものは、本当にこのあたりから出てくる感がある。

 そうした技術的段階をむかえた今日だからこそ、1759年、『ペンシルバニア歴史評論』に寄せた、米国民主主義の父ベンジャミン・フランクリンの言葉には耳を傾ける価値がある。英国の植民地主義に抗してゆれ動く米国社会のただなかにあって、彼はこう言った。「目の前の小さな安全を手に入れるために基本的自由を手放す者は、自由も安全も手にするに値しない」。21世紀、ビッグブラザーの誘惑に抗して、われわれは自由と安全を両立させる社会をこそ目指さなくてはならない。p.154

 監視カメラの関する話。この種のアイデアは古くからあって、1930年頃には監視カメラが出現しているという話。今や、何でもかんでも監視できるようになりつつある。それに対し、どう対応を取るか。

 しかし本当に驚かされるのは、空中散布にとっての「真の敵」について述べた個所である。曰く、「強力殺虫剤作戦にとりたったひとつの障害は人間である。無知あるいは恐怖心にかられた人間である」。散布直後、農務省には「スポーツ愛好家たちからの不平不満」が殺到した。「DDTのせいで大量の魚が死んでしまった。愛鳥家たちは、野鳥が殺されたと息巻き、自然愛好家は、自然のバランスが崩れると吠えたてる。スクラントンの野鳥観察愛好家の女性は、散布機が噴霧しているのを見て、なんと農務長官に直接抗議した。長官が、死んだ鳥を見かけたかと尋ねると、この野鳥愛好家は答えたそうだ。『さあ、どうかしら。でも裏庭のマルハナバチがひどい姿になってますよ』」。
 正確な科学知識をもたずに、ただ感情だけで反対する「素人たち」。しかもヒステリックに抗議する「女性」。『ポピュラー・メカニクス』誌のこうした修辞法からは、1950年代に米国社会ががんじがらめになっていた、楽天的な科学信仰やジェンダーといった言説の枠組みが透けて見える。p.190

 害虫対策にDDTを大規模に噴霧したときの話。こういう修辞法が現在の日本でもよく見かけるよなあ。

 現代の神話である科学イメージとは、思いのほかやっかいなものである。正確な科学情報を知りさえすれば曖昧な科学神話を払拭できる、というようなものではないからだ。啓蒙すれば迷信は退治できる。そういうものではないのだ。『啓蒙の弁証法』(アドルノ/ホルクハイマー)を持ち出すまでもなく、啓蒙そのものがすでにして神話構造を内部に宿しているからである。『ポピュラー・サイエンス』や『科学画報』にはじまり、新聞や小説などあらゆるメディアが再生産してきたのは、その真摯な編集意図とは別の次元において、じつは科学情報のもつ「啓蒙の弁証法」という円環構造そのものだったといってよい。20世紀大衆社会、それは科学イメージという神話の時代だったのである。
 啓蒙という表象システムはこうした円環構造から逃れることができない。そうした事態の一端を、具体的な資料にそくして浮かび上がらせる。これが本書の狙いだった。その任が果たせたかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。今回はこのかたちでひとまずまとめてみた。本書では27項目のアイテムを扱ったが、同じような分析対象があと140項目ほど著者のハードディスクのなかに待機している。いずれも20世紀科学イメージの神話作用を発信しつづけたものばかりだこちらも、近々ご紹介できればと思っている。p.259

 全体の狙い。まあ、一線の科学者だって、自分の専門外は、「科学イメージ」しか知らないだろうしな。そういう意味では、「啓蒙」って不毛だよな。