西尾哲夫『世界史の中のアラビアンナイト』

世界史の中のアラビアンナイト (NHKブックス)

世界史の中のアラビアンナイト (NHKブックス)

 現在に至る『アラビアンナイト』の形成とその時々の要因を描いている。ただ、写本をはじめとする、固有名詞の嵐で、途中で混乱するところも。索引が付いていればよかったのにと思う。
 最初はアラビアンナイトの成立史。シェヘラザードが毎日側室を殺害する王に嫁ぎ、毎日話をして命をつなぐという、冒頭の「枠物語」が9世紀の断簡から、その時代に既に存在していたこと。この「枠物語」と「千一夜」というタイトルにもとに、物語を集成した作品が存在し、正当な文学とは評価されなかったが、講談師を通じ伝承され、好事家が集成していたこと。12世紀のカイロにも伝承されていたことなどが明らかにされる。しかし、ゲニザ文書の汎用性がすごいな。
 第三章はヨーロッパへの紹介。アントワーヌ・ガランによる最初の翻訳。15世紀頃にシリアで成立し、アレッポ近辺で継承されてきた三巻本の写本を元に翻訳が行われた。さらに、先があると信じていたガランや書店主によって、新たな物語が追加された。「アリババ」や「アラジン」といった物語は、マロン派キリスト教徒のハンナ・ディヤーブが物語った話を、ガランがヨーロッパ的にリライトして、組み込んだものだという。写本が存在しない「孤児作品」がいくつかあるという。「シンドバード航海記」「アラジン」「アリババ」と、「アラビアンナイト」の代表的な話が、実はもともと、「アラビアンナイト」に入っていたものではなかったというのが興味深い。
 第四章は、ガラン版『千一夜』の成功を受けて、ヨーロッパ人の写本探し。このあたり、固有名詞がたくさん出てきて、ちょっとまとめきれない。偽写本によって、「千一夜」が文字通り千一夜分物語があると理解され、「完全」な写本が探索されたり、印刷本の出現とか。同時に、エジプトでも、もともとの『千一夜』に、エジプトの伝承を付け加えた写本が成立していたり、ヨーロッパ人の需要に合わせて写本が粗製乱造されたり。
 第五章はイギリスの植民地政策の道具としての『アラビアンナイト』。カルカッタで印刷された「カルカッタ版」がどういう意図をもって作成されたか。1814-8年に印刷された「カルカッタ第一版」はアラビア語のテキストとして作成された。アラビアンナイトは卑俗な語彙を使ったアラビア語で書かれていて古典アラビアの学習書としてはふさわしくないが、行政文書などに使用されているペルシア語の学習には適していたという。イスラム征服以後のペルシア語には、大量のアラビア語語彙が流入していて、アラビア語の語彙を理解するにはアラブ語の知識が必要であったという。「カルカッタ第二版」は1839-43年に作成されたが、この第二版の時期には「インドに渡るイギリス人職員に必要なもんは、インドに対する実際的な知識などではなく、よきキリスト教徒としての素養である」という考え方が優位に立ち、法制なども英語に変えられるなど、統治政策の変更が見られた。第二版は植民地の「目録化プロセス」の一環として作られたものだという。また、アラビアンナイトの英訳であるレイン版、バートン版の性格について述べ、レイン版が異文化理解の資料として、バートン版が中東を理想郷とするオリエンタリズム的な性格が強いと指摘する。
 第六章はエジプトで印刷されたブーラーク版とエジプトが近世に原アラビアンナイトにエジプト系の伝承を付け加えた写本を大量に生産した理由。ヨーロッパからの紙の輸入が増え、同時に書物の生産量も増えたこと。中産階級の家庭で書籍を所有継承する所が増えたこと。エジプトで書き言葉と話し言葉の合流による中間アラビア語の生成など。
 第七章は19世紀末から20世紀初頭に翻訳されたマルドリュス版から、オリエンタリズム的なアラビアンナイトという到達点について。マルドリュス版が非常に官能性を強調したものであり、また、さまざまな話をマルドリュスの美意識によって再編成したものだと指摘される。
 終章は世界文学になった要因としてのシェヘラザード。アラビアンナイトは「悪知恵を弄して男性をあざむく女性に対する不信」がテーマになっている。中近東には、女性が秩序外の存在で、悪知恵(カイド)を弄して男性を誤らせるといった女性観が存在した。アラビアンナイトもそのような伝統につながる作品だが、蛮行を繰り返す王を改心させ、秩序の回復者として、たんなるカイドではなく、それを越えたものになっていたこと。肉体性の喪失が、さまざまな人々の想念を受け止め、世界文学としてのアラビアンナイトを可能にしたと指摘する。


 以下、メモ:

 《アリババ》の音声認識式自動扉にせよ、ねじをひねって空を飛ぶ機械の馬にせよ、ある程度まではイスラーム黄金期の先進技術を反映していると思われる。中世のイスラーム世界では、オートマタと呼ばれる自動人形がさかんに制作され、なかでもアルジャザリー(1136-1206)は不世出の技術者として名を残した。彼が作ったオートマタの中には、ロボットの楽団やクジャクをかたどった自動洗面器などがあり、大がかりなしかけを用いた「城時計」には、定刻ごとに翼を広げクチバシから玉を落とす鷹のオートマタが付属していたらしい。p.20

 へえ。イスラム技術史の話。

 17世紀の東方が、同時代のヨーロッパに比べてより残酷だったかどうかについて、ここで議論する必要はない。注目すべきなのは、ヨーロッパ人の目には、理不尽な残酷性は東方の特質であると映っていたことだ。近世に中東を訪れたヨーロッパ人旅行家の記録には、現地で見聞した(彼らにとって)容認しがたい残酷性がくりかえし登場する。
 しかし、そういった残酷性はアラビアンナイトだけに見られるわけではない。グリム童話をひきあいに出すまでもなく、民話や昔話には残酷性が横溢しているのだが、東方という異域が舞台になると、他者への幻想が顕著にあらわれてくる。このような東方ないし中東のイメージは、現代まで脈々と続いており、ヨーロッパの東方幻想を無批判に受け入れてしまった日本でも見ることができる。p.105-6

 この手のイスラムの「残酷性」については、山内進『決闘裁判』でも言及されていたような。法や秩序の問題として。

 フランス語に訳されたガラン版『千一夜』を利用して、アラビア語の「続ガラン写本」を作ってしまったのも、アラビア語母語とするアレッポ出身の人物だった。
 彼の名はシャヴィ。聖バシリウス修道会に属しており、本人の言によると本名はディユーニーシウース・シャーウィーシュだった。イスタンブールにあったギリシア語学校で学んだ後、フランス大革命(1789年)の直前からパリに暮らすようになり、王立図書館でアラビア語を教えていたらしい。p.117-8

 ポコックのラテン語訳では、イスラームムハンマドにかかわる箇所が削られていたこともあり、内在する知性によって真理に到達できるという「ハイイ……」のテーマは、当時の知識人に多大な影響を与えた。イギリス国教会にあっては理性的宗教の理想型ととらえられたし、クエーカー教徒の立場からは、教会の仲介がなくても信仰は可能であるという主張の裏付けとなった。なお、ラテン語の「ハイイ……」をいちはやく英語に訳した(1674年)のは、クエーカー教徒のジョージ・キースだった。
 「ハイイ……」は、コーランアラビアンナイトに次いで、最も多く訳されたアラビア語作品だとも言われている。デュフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)との関連性はかねてより指摘されているが、孤島を舞台にするという表面的な設定だけではなく、「ハイイ……」に示された哲学的思惟については、ジョン・ロックやエマニュエル・カントをはじめとする「啓蒙の世紀」の思想家たちへの影響も注目されている。p.153

 イスラム世界の文化的・人的交流の密度。思ったより、密接に交流しているんだよな。

 また、校定者シェイフ・シールワーニーの言によると、アラビアンナイトは口語アラビア語を学ぶには恰好のテキストだった。現地での実務遂行という観点からすれば、「書きことば」を使いこなす学者を育成する必要はない。このように、カルカッタ第一版は実質的なインド統治を目的として作成されたものであり、厳密な校定作業による学術的な出版物ではなかった。シェイフ・シールワーニーにしても、イギリス人学習者にあわせた改変をおこなっている。p.161

 実務言語の習得用テキストとしてのアラビアンナイト

 「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」の原型がわかっていない以上、アラビアンナイトの「正典」や「偽典」の区別にこだわるのはナンセンスだが、現時点でもっとも古い形をとどめていると思われるシリア系のガラン写本を基本形とするならば、カルカッタ第一版をはじめとする四つのアラビア語刊本すべては切り貼り作業によって作成されたものであり、「これこそがアラビアンナイト本来の姿」という謳い文句にはまったく何の根拠もない。p.162

 切り張りとしてのアラビアンナイト

 マンチェスター写本には重要な特徴がある。筆写した人物の名を思い出してみよう。「ナシーム・イブン・ユーハンナー・イブン・アブー・アルマサーがエジプト(人)教師のために筆者」とある。「ユーハンナー」とはアラビア語の「ヨハン」であり、ムスリムにこの名がつけられることはない。つまりこの写本を作成したのは、キリスト教徒ということになる。ガランの手元に届く直前までガラン写本を所有していたのも、メルキト派のキリスト教徒だった。つまり、アラビアンナイト写本の伝世には、キリスト教徒が深くかかわっていたことになる。p.194-5

 アラビアンナイトキリスト教徒。

 19世紀のイギリス人旅行者クラークも、「この作品(アラビアンナイト)は、作者もしくはこれを写字生に発注した依頼主の趣味だとか事情にしたがって編集されたものであって、民間でしか見かけることができず、同じ話を収録した選集は二つとは存在しない」と述べている。「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」が家庭内で大切にされてきたことは、『アレッポ博物誌』の記事でも確認できた。
 中東滞在時のガランは精力的に書店めぐりをして写本を収集していたが、それでも「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」の情報に接していなかったらしい。ということは、この書籍が販売目的の商業本としてではなく、家庭内もしくは内輪の集まりで物語を楽しむための私家本、つまり語り手(もしくは読み手)用稿本のようなものとして伝承されてきた可能性を示唆している。p.206

 アラビアンナイトの伝承の特色。家庭内での語りの稿本としての伝承。

 アラビア語圏の本や新聞・雑誌は、ほとんどすべて「書きことば(フスハー)」で書かれている。テレビのニュースや国会での議論、大学の授業なども「書きことば」だ。アラビア語圏の人々は小学校のころからこの「書きことば」を学んでいるのだが、複雑かつ美麗な文章術の獲得はきわめて難しい。このため、「書きことば」による情報交換が成立している世界と、「話しことば」による日常的な会話の世界が分かれており、「書きことば」を使いこなせる人々とそうでない人々のあいだでは、入手できる情報の種類や分量に偏りがあった。したがってアラビア語圏では、民衆が言語コミュニケーションをつうじて広範なネットワークを作り出すことが難しかった。
 だがITの出現によって、大きな変化が生じてきた。漢字やひらがなのある日本語と違い、アラビア語は基本的に二十八文字のアルファベットなので、コンピュータとの相性は悪くない。しかし、パソコン上でのアラビア文字メールの送受信には、文字化けしやすいといった難点があった。
 携帯電話のアラビア語事情は少し異なってくる。中東の多くの国々では、無線通信が軍事用に独占されていた。ここに携帯電話が登場すると、もともと有線電話網が十分に発達していなかったこともあって、あっという間に携帯電話が広がった。ただ、携帯電話で「書きことば」をアラビア文字で入力する環境はすぐには整わなかった。
 そうしたなかで若者たちは、ローマ字による日常会話をメールで送るようになった、ローマ字ではアラビア語のすべての音を表記できないのだが、友人同士の意思疎通にはそれほど問題はない。「話しことば」は、地域だけでなく職種や部族によっても異なるが、若者たちがローマ字メールに使用したのは、いわゆる中間アラビア語とよばれる新生アラビア語ぼ一種だった。やがてアラビア文字を用いた通信環境が整いはじめると、2011年の反政府運動で彼らが用いたのはアラビア語表記による中間アラビア語だった。
 エジプトでフェイスブックによるコミュニケーションが広まった理由については、もう少しだけ補足しておく必要がある。アラビア語圏において「話しことば」を文字で書くという行為は、エジプト独自の展開ともいえるからだ。いささか煩雑になるが、歴史的な背景を確認しておこう。
 オスマン帝国支配下にあった18世紀末から19世紀半ばのシリアやレバノンでは、キリスト教徒が中心となってナフダとよばれる文芸復興運動が起こった。彼らはアラビア語を使用していたが、キリスト教典礼文書などでは簡素化された文法を用いており、コーランに書かれているようなアラビア語ではなく、「話しことば」に近いアラビア語を使用していた。同じころ、エジプトではブーラーク印刷所の設立など、ムハンマド・アリーによる近代化政策が推進されたが、やがて19世紀後半になると、レバノンやシリアからエジプトに移り住む人々が増え、彼らの多くは文芸関係やジャーナリズムにかかわっていった。エジプトを代表する新聞アルアハラームの創刊者もシリア人だった。このような伝統は今でもひきつがれている。シリアやレバノンからの移民はエジプトのリテラシー改革に積極的に参入し、「書きことば」の中間アラビア語化が進んだ。また、実質的にイギリスの植民地となってからは、エジプトの「話しことば」を国民国家の言語にしようという動きも出てきたが、これはイギリスによる分割統治策の一環でもあった。
 こうしてエジプトでは、「話しことば」の書記法が徐々に定まっていくことになる。またエジプトでは、「話しことば」を用いてノクタ(小噺)や戯曲を書いてきたから、「話しことば」を表記するための下準備はできていた。つまり、IT化によって突然「話しことば」を書くという行為がはじまったわけではない。p.208-10

 エジプトの言語事情。

 ともあれ、19世紀のエジプトでまとめられたブーラーク版には、ガランとほぼ同時代のエジプト庶民が知っていた物語が詰めこまれている。その意味では、ブーラーク版は、アレッポ近辺で伝承されていたガラン写本の物語とは別系統の伝承を集めた、「もうひとつのアラビアンナイト」と形容することができるだろう。p.213


 ブーラーク版やカルカッタ第二版に収録されている物語ではなく、独自の視点で選んできた物語を多用したことから察するに、マルドリュスの意図は特定の底本の完訳ではなく、自分が想定したテーマにそって新しい物語集を編集することにあったのだろう。その意味でマルドリュス版は、あらゆる物語を片っぱしから採録して巨大目録としてのアラビアンナイトを完成させたバートン版ではなく、一定の編集意図のもとに物語を集めてきたと思われるガラン写本の伝統につながるものだった。ガラン写本の編集者がアラビア語でやったことを、マルドリュスはフランス語でやったことになる。p.227