ミシェル・パストゥロー『青の歴史』

青の歴史

青の歴史

 思った以上にガチな歴史の専門書だった。『完璧な赤』と同レベルと思っていたのが大誤算。結局、4-5日ほどかかってしまった。しかも、なんか「色の象徴性」とか、その手の議論には通じていないから、分かった気がしねえ。参照文献もフランス語とドイツ語ばっかりだし…
 内容は、「青」という色がヨーロッパの価値体系の中でどのように評価されてきたかを描いた本。
 第一章は古代から中世初期。古代ギリシア・ローマでは、青は評価されない色であり、青い服を着る人物は評判を落とすほどだった。一方で、ゲルマン人ケルト人はタイセイを使った青い服を着ていたという。このような価値意識を引き継いだ中世初期にも、青という色はほとんど無視されていた。結果として、教会の典礼の体系に青は存在しないという。
 第二章は中世盛期を中心とした時代。紀元1000年以降、青という色は評価を高めていく。その理由としては、聖母マリアの色とされてマリア信仰の活発化とともに地位が上昇していったこと。同時にフランス王家の色ともされて、こちらの発展も寄与したことが指摘される。赤色を染める染色師と青色を染める染色師の競合。混色のタブーとキリスト教。染色の手引書の研究が進んでいないという指摘。白赤黒の三色の秩序体系から六色の基本色(白赤黒青緑黄)。
 第三章は大よそ近世の15-17世紀。宗教改革の過程で、カトリック典礼の体系に含まれなかった色である青は、プロテスタントにも評価される色となり、その着用や利用は広がった。プロテスタント芸術でも青は重用されたという。
 第四章は18世紀以降現代まで。青という色が他を圧倒する評価の高い色になるまで。新大陸産のインディゴの大量供給が広い利用を可能にし、さらに合成染料が広げた状況。ロマン派の色としての位置付け。フランス革命とその軍服に採用されたことが、青をフランスの国民色といった地位につけたこと。更に20世紀に入るとジーンズとして、また「マリンブルー」として制服に採用されて、服飾の世界で青の比重を高めた。ところでこの「マリンブルー」については図版が白黒なのでどんな色なのかよく分からないのだが、これって「濃紺」ってことなのだろうか。後はスペクトル分析による、色の体系の話とか。
 経済史分野でも、「織物」はよく取り上げられるが、染料の流通や染色そのものの分析は比較的少なく感じるな。その点では興味深い。


 以下、メモ:

 実際こうした様々な変化の紀元には、十四世紀中葉以後の黒の地位向上がある。この地位向上は間接的かつ緩慢にではあるが赤よりも青の利益となった。すべては1360-80年代頃に始まる。ヨーロッパ各地で染め物師はその二世紀前に青に関してやり遂げたように、何世紀もの間できなかったことを十‐二十年のうちに達成した。すなわち、先人たちが得ることができなかった実に美しい色合いの黒、堅牢で濃く光沢のある黒に羊毛のラシャを染めることに成功したのである。ところで、この技術変革と職業的成功の第一の原動力と思われるものは染色の化学における発見でもなければ当時まで知られていなかった染料のヨーロッパへの到来でもなく、社会の新しい要求のようである。社会がいまや上質の黒い織物と服を必要とし、新しく高く評価されるようになったこの色で巨大なラシャを染めるように染め物師に命じたからこそ、職人たちはこの染色に成功し、それを速やかに実行した。ここでもまたイデオロギー上の係争点と社会の要求が化学と技術の進歩をひきおこし、加速させたようであり、その逆ではなかった。p.89-90

 卵が先か、ニワトリが先かって感じだな。社会に大きな需要があったからこそ、高級な黒のラシャが出現したと。逆に言うと、染め物師集団のノウハウの中にある程度の蓄積があったんだろうな。需要がないからお蔵入りになっていただけで。

差別的しるしの規則におけるこの青の欠如――それは典礼の色の規則においてと同様であるが――は、いずれにせよ、十三世紀以前の以前の社会規範と価値体系の中でこの色のあまり関心が向けられなかったことを雄弁に示す史料である。しかしそれはまた、青の「道徳的」な地位向上を促す要因でもあった。規定されても禁じられてもいない以上、青の使用は自由で中立的であり、危険がなかった。おそらくだからこそ数十年もの間に男性の服でも女性の服でも青は次第に圧倒的に使われるようになったのである。p.98-9

 中世の半ばまで、青はイデオロギー上の位置付けがほとんどなかったからこそ、自由に着られて、地位を向上させることができたという話。隙間にいたのが幸いした感じだな。

 フィリップ善公が黒を絶えずつけていたと何人もの年代記作者が強調し、その説明として、この色を身につけつつ、1419年にモントロー橋でアルマニャック派に暗殺された父ジャン無畏公の喪に服していると述べている。それは間違いではないが、このジャン無畏公地震、1396年ニコポリスでの十字軍敗北以後、すでに黒を常用していたと指摘できるのだ。実は家系の伝統、王侯貴族の流行、政治的事件、個人史といったものすべてが結びついた結果、フィリップ善公は黒を好むようになり、彼の個人的威信によって西欧全体における黒の決定的地位向上が確立したのである。p.104

 歴史と偶然の関係。

 前述の通り十三世紀以後、青い色調の新流行のおかげでタイセイ生産者と青色染料商人は富を築くことができた、この「青い金」は、いくつもの大都市(アミアントゥールーズエアフルト)に繁栄をもたらしただけでなく、ある地域(アルビジョワ、ロラゲ〔ラングドックの一地方〕、チューリンゲン、ザクセン)を栄えさせ、まさに「桃源郷」(pays de cocagne)にした。莫大な富が青色染料の製造と貿易だけで築かれた。例えばトゥールーズの商人ピエール・ド・ベルニは、この商売で実に裕福になったため、1525年、パヴィアの戦いで捕虜となった国王フランソワ一世の釈放にあたって皇帝カール五世から要求された巨額の身代金の保証人になることができたのである。
 しかしながらこの繁栄は、一時しか続かなかった。早くも中世末期から次第に増えつつあったインド産のインジゴ、「インディック石」に脅かされ始めた。インジゴの葉は乾燥の後、粉状にされ、石のように固めた塊のかたちで西洋に渡ってきた。東洋と盛んに貿易していたイタリアの商人たちは青いラシャと服が貴族の間で流行したことに乗じ、染料としてタイセイより十倍も強力で価格も三、四十倍高いこの異国の製品を西洋に定着させようとした。その痕跡はたとえばヴェネツィアでは早くも十二世紀から、ロンドン、マルセイユジェノヴァ、ブルッヘでは十三世紀から見られる。しかし初期にはタイセイと青色染料の業者がこうした輸入の抑制に成功した。彼らは、いくつもの地方において地元のタイセイ生産に大損害を与える恐れのあるインド産インジゴを染め物師が使用することを禁じるように国王や都市当局に要請し、禁止令を発布させていた。十四世紀を通じて、法令や規則がこのインジゴ染色禁止を何度も繰り返し、違反者には極端に厳しい罰を与えると脅かしている。ときにはカタルニアやトスカナのいくつかの都市で絹の染色に関してはインジゴ使用が容認されることもあったが、それは一般的には遠かった。しかしながら、こうした保護貿易主義的措置によっても、タイセイの価格下落は、とりわけイタリアとドイツにおいては食い止められなかった。タイセイと青色染料の業者にとって幸いなことに、十五世紀にトルコが近東と地中海東部に進出してきたため、西洋へのインドとアジアの輸入品供給が妨害された。それはタイセイ生産者と青色染料商人に少々の猶予を与えたとはいえ、短期間のことであった。
 実際その数十年後、ヨーロッパ人は新世界の熱帯地域で、アジアのインド藍より強力な染料がとれる様々な種類のインド藍を発見した。いまや自体は決定的であった。支配者が厳格な保護貿易主義政策をとっても、異国の製品を悪魔的としても――「有毒、詐欺、偽、有害、腐食性、浸食性、不安定」といった形容がなされた――、染め物師の工房においてヨーロッパの青色染料は次第にアメリカのインジゴに場を譲るようになった。スペインにこの変化が最初に訪れ、それはこの国にとって莫大な富の源泉となった。他の国は障壁を設置しタイセイを保護しようとしたが、それは無駄であった。イタリア――いずれにせよ青色染料を生産するより輸入していた――が最初に屈した。早くも十六世紀中葉以後、西インド諸島のインジゴがジェノヴァ港経由で大量に輸入され、一方ヴェネツィア東インドのインジゴ貿易を再開した。その後、十六世紀末には英国とオランダ連合州が屈服し、早くも十七世紀中葉には両国の様々な会社が大規模なインジゴ貿易に従事した。タイセイの主要産出国であるドイツとフランスは。さらに長い間抵抗したが、それは容易ではなかった。p.138-9

 タイセイとインジゴの抗争。このあたり、プロト工業化論なんかと相性がよさそうだけど、研究がフランス語かドイツ語ばっかり…

ゲーテが主人公に青い燕尾服を着せたのは、青が1770年代にドイツで流行していたからである。しかし、彼の本の成功がこの流行をいっそう強化してヨーロッパ全土に広め、単なる服飾の分野から具象芸術(絵画、版画、陶芸)にまで拡大したのである。これは、想像界と文学が社会の現実に完全に属していることの新たな証拠である。p.152

 メディアと社会。