「記者有論:文化くらし報道部:暮らしの記録 電子博物館で保存しては」『朝日新聞』11/12/6

 毎週土曜の夕刊(東京本社発行)に掲載している「昭和史再訪」の取材をするたび、同じ思いにとらわれる。「たかだか数十年前のことなのに、基礎的なデータは意外にないものだ」と。
 昭和30年代から40年代にかけての集団就職。中卒の就職者、いわゆる「金の卵」が上野駅に降り立つ姿は高度成長期の春の風物詩でもあった。
 では、一体何人が集団就職で都会に出たのか。この数字を把握することは難しい。文部省(当時)の「学校基本調査」は中卒就職者の全数は分かるものの、昭和30年代途中まで県内・県外別調査はない。労働省(同)の統計は職安経由に限られる。学卒者の就職あっせんは職安経由に限ると決めた昭和39(1964)年以前は、縁故採用や企業の直接採用も多く、職安だけでは全体像はつかめない。結局、私の記事では「職安経由で」「1960年代に」などと限定するしかなかった。
 上野駅行き新卒就職者専用の臨時列車は、昭和29(1954)年4月5日に青森発が初めてとされる。引率者の負担を軽くするため、北海道にニシン漁に行く人を乗せた臨時列車をヒントに青森県の職業安定課が発案した。これを明らかにしたのは地元紙・東奥日報だ。県には一切の資料がない。最後の生き証人はこの春鬼籍に入り、経緯を証言できる人はいなくなった。
 青森県の県史編さんグループの中園裕主幹は「決められた保存期間が過ぎれば行政資料は破棄される。公文書館などがきちんと整備されない限り、現代史の基礎データは日々散逸しつつある」という。
 「学校給食」も同様だ。主体は市町村が中心で、実施状況がすべて残っているわけではない。文部科学省が定期的に調査をしているが「米飯給食はいつから始まり、どの地方から広がったか」といった疑問に簡単に答えは出ない。
 行政が関わらないものはなおさらだ。身近なビニール傘の国内消費量は年8千万本程度だか、あくまで推計だ。過去の生産量の推移となると、全くのお手上げである。
 私たちはどんな暮らしをしてきたのか。それを示してくれるデータや情報は日々、消えていく、幸い、データは容易に電子化できるようになり、保管場所に悩む必要はなくなった。だれもがデータを投げ込める「現代史の電子博物館」をつくってはどうだろう。散逸するに任せては、あまりにもったいない。

 うーん、「電子博物館」も万能ではないんだよな。ストレージにバックアップ、ユーザーインターフェースと考えていくと、出だしのコストに維持コストが結構かかると思う。ファーストサーバの事件なんかも記憶に新しいし。
 そもそも、そもそもここで言われているような事例は、どれも編集して公開するのにコストがかかりそうなデータ。結局のところ、公文書館というか、アーカイブが整備されていていないと、そもそも話にならないと思う。結局のところ、自らがどのような行動をしてきたのか、それを検証するための情報を、コストをかけて蓄積する覚悟が、国民にあるのかどうかが問題なのだと思う。