渡辺節夫『フランスの中世社会:王と貴族たちの軌跡』

 フランスの王権が、最終的に近世のルネサンス王権、絶対王政に至る国家規模での権力集中の過程をまとめた概説書。要領よくまとまっているが、逆に具体的な事例にかけているのが欠点とも思える。歴史のだいご味というのは、最終的に一定の方向に行くとしても、その過程では行きつ戻りつする所にあると思うし。そういう点では、読み進めさせる推進力に欠けるところがある。
 前6割前後が中世盛期、カペー朝がフランス国内に王権を伸張させていく状況。残りが中世後期に、社会構造の変化の中で王権の制度とイデオロギーが変化していく過程を描いている。中世半ばのフランス王権は、個別の私的関係・交渉の結果の束でしかない制度を、カロリング朝の皇帝権やキリスト教的君主としての聖性を利用して補っていたという感じだろうか。イデオロギー方面は、いまいちよく分からないところが。
 これが中世後半、黒死病による人口激減とそれに伴う領主制の危機の中で、王権のイデオロギー、国内における「皇帝権」、王の肉体と権威を分離する「王の二つの身体」といった観念の強化。また、制度面でも、収入の低下した貴族を軍事・行政の官職によって取り込み、全国的な司法財政制度の確立といった、全国的な制度を確立していく。このような王権の強化に、100年戦争による長期の軍事的な緊張も作用しているといったところだろか。一方で、様々な個人・団体と王権の個別交渉の集積体であるという側面は、絶対王政期にも克服されなかったように見える。


 以下、メモ:

 中世(Medium aevum,medieval age)という概念はそもそも三区分論の下で、二つの時代にはさまれた中間の時代という意味である。その起源は中世の“千年王国論”にあり、キリストの降誕から神の王国の到来までの時代を意味した。後にルネサンス期(14-16世紀)の文人たちはこの三区分論を活かして“豊かな古代”の終焉後の“新しい啓示”が現れるまでの待望期として“中世”(medium tempus)を位置づけた。
 歴史概念として“中世”が用いられるようになるのは17世紀末のCh・ケラー(1707年没)の『世界史』においてである。彼は古代、中世、近代に三区分し、中世をコンスタンティヌス大帝の死(337年)からコンスタンティノープルの陥落(1453年)の間の時期に具体的に設定している。それを受けて18世紀から19世紀の思想家たち、ヴォルテール(1778年没)、ギゾー(1874年没)、ミシュレ(1874年没)らは、「人間精神の最も洗練された時代」、「新たな光明によって自由、人間性、徳が再生する時代」たるルネサンス期と対照的な「暴政と専制と抑圧の時代」すなわち“暗黒時代(Dark Ages)”としての中世の評価を定着させることとなる。
 しかし20世紀に入り、古典古代(ギリシア・ローマ)とルネサンス期にはさまれた“暗い谷間の時期”という中世の伝統的な評価は一新されることになる。つまり西欧近代は単なる古典古代の復活ではなく、中世の遺産の継承であると考えられるようになってきた。また、それと対応して、古代と中世との関係は漸次的な移行であり、大きな断絶ではない(A・ドープシュ、文化連続説)ことが強調されている。p.10-11

 中世=暗黒時代って考え方は結構根強いよなあ。そもそも、古代中世近代という三区分自体が、非常にイデオロギー的。日本でも天皇制をキーに適用しやすかったから定着したんじゃないだろうか。基本的にヨーロッパ以外に適用するのは、意味がないと思っている。

 一方、農奴制概念の明確化のうえではマルクス主義が果たした役割は大きい。農奴制は一般に「西欧前近代における直接生産者の従属形態の一つで、基本的には支配者=領主との生産関係により規定される。農民は生活資料を生産するための保有地を占有する小経営農民であるが、剰余労働の成果を地代として領主に支払うことを義務づけられている。領主は剰余移転のために農民を土地に緊縛し、裁判権をはじめとする各種の法的、制度的強制権=経済外強制権を保持した」と定義されている。
 理論的には奴隷制との差異が問題となる。独立労働と小経営の遂行のみでは農奴とは言い難く、人格を認められず、生産手段の一部として土地に付属する存在であり、小経営の維持・存続自体が主人(領主)の恣意の下に置かれている従属民はなお奴隷(土地占有奴隷)に含めるべきであるという見解もある(中村哲氏)。確かに「荘園支配の本質は土地所有を土台とした人間支配の体制」であり、「荘園制は人間支配という思想が土地所有と結びついた特殊な一形態」(W・リュトゲ)なのである。したがって農民の経済的従属関係(土地保有と貢租・地代支払の態様)はその身柄の法的処遇、規定性と不可分なものであった。農民層の領主に対する従属を経済・法両面から総合的に把握することにより、農奴制とレーン制の内的必然性が明らかになり、ひいては中世社会の全体構造――真の意味での封建性(feudalism)――を明らかにできる可能性がある。p.26-7

 うーん、「農奴制」もだけど、「封建制」とか「資本主義」みたいな、多義的な意味のある用語は使いにくい。マルクス主義的な意味での「農奴」って、存在したのかも怪しいし。

 西欧における主従関係の特徴は、まず保護・奉仕という人間関係と封の授受という物的関係が一体化することにより両当事者が極めて緊密である点にある。「封のための臣従(homagium pro feodo)」(12世紀)、「封による従者(homme de fief)」(13世紀)という表現はそれをよく示している。封が封地相続(relief)の支払いを条件に、早期に世襲物権化することもこれと関係している。12世紀中葉の北フランスの一証書には「フランス王国では死により相続権を得るものは誰でも、封(feodum)が授封物権(casamentum)とすてそのもとから移動する主君に対し封地相続税をなすことが習慣でもあり、法でもある」と記されている。加えて近代の個人間の契約に近い双務性が挙げられる。ドイツ語で「誠実な主君ありて、誠実な家臣あり(Getruer Herr,getreuer Mann)」と表記されるように、レーン関係はいずれの側の義務不履行によっても同じように解消されるということである。この点は日本の片務的な君臣関係、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と極めて対照的である。p.36-7

 いや、日本でも、「中世」には君臣関係は基本的に双務的なものだったわけだが。ここで引かれている言葉は、江戸時代に入ってからのものだろう。鎌倉から戦国時代には、頼りない主君は、速攻で見限られるし。あと、複数君主制とか、優先制ってのは、興味深いな。明示的に、複数の人物に奉仕する宣言って、感じ悪くないかと思わなくもない。

 こうして諸貢租の総額は全収量の50-55%に達し、備蓄分20-25%を除くと、自己消費分は20-30%にすぎないのである。とりわけ地代の比重が比較的低く、他方で裁判権自体が領主収益の重要な源泉であったことがわかる、農民層の自己消費部分が全体の四分の一前後にすぎないことは領主支配の重さを示すものであることは言うまでもない。
 同時に、それを支え得た生産力水準の高さにも目を向ける必要がある。大開墾運動がその前提であるが、農業生産技術の発展も無視できない。それは三大発明と呼ばれているもので、1、重量有輪犂の導入による耕作の効率化(11世紀後半以降)、2、豆とマガラス麦(oat)の導入による三圃制の普及(12世紀前半)、3、家畜の耕作への効果的な使用――繋駕法の改良と馬の導入(1200年頃)――が挙げられる。その結果として穀物の収量はカロリング期の三粒(種一粒当り)に対して、12・13世紀には5粒-12粒。1300年頃には12粒と実に四倍増となっており、すでに18世紀の農業革命直前の水準に達したのである。このような生産水準の上昇に支えられて、人口の安定的な増加率(年率0.3-0.5%)を実現し、全体として1000年を起点として、1200年には二倍、1300年には三倍に増加したと推定される。p.44-5

 うーん、いつも思うんだけど「重い税金」って、そんなに取れたのかなあと。総生産の半分も取ったら、社会が機能しないんじゃないかねえ。日本の年貢もそうだけど、生産の一部分から半分程度取っているという感じなんじゃなかろうかと、常々疑問に思っているのだが。

 東側のギリシア正教の世界では1453年のビザンツ帝国の崩壊まで、ビザンツ皇帝が“東ローマの皇帝”位を継承し、古代ローマコンスタンティヌス一世以来の皇帝教皇主義(caesaropapism)を維持した。帝国崩壊後、ビザンツの最後の皇帝コンスタンティヌス一一世の姪ゾエ・パライオロゴスと結婚したモスクワ大公イヴァン三世(在位1462-1505年)が、ビザンツ皇帝の名称と紋章を引き継ぐことになる。p.156

 このモスクワ大公による「ビザンツ皇帝位」の引き継ぎって、ロシアがモンゴル世界を離脱する動きのひとつなんだろうな。別の権威を確保するというか。