西股総生『戦国の軍隊:現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』

戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

 戦国大名の軍勢がどのように構成されていたのかを検討した本。まあ、大まかな議論は、近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』asin:4642055843や根岸茂夫『大名行列を解剖する:江戸の人材派遣』asin:4642056823を読んでいれば、特に違和感はない感じだな。精鋭部隊としての侍、傭兵である足軽、主君の身の回りの世話をする下人・小者といった非戦闘員といった構造。ただ、経歴から見るに著者は考古学畑の人みたいで、微妙に文献史学に対する見方や、中世全体を見渡した時に解釈に違和感があるというか。
 「軍事史」と「歴史学」の橋渡しに失敗しているような気がする。全体として「軍事史」には独特のカラーがあるから、プロパーな歴史学者が引き気味なのは確かだろうけど。最近は「軍隊の社会史」といったスタイルの研究(西洋史の話だけど)は存在するし、話の持って行き方の問題じゃなかろうかと。ブローデルの人間社会の活動を短中長期に三つに分ける考え方からすると、歴史学は中期的な社会や経済の「構造」の分析に力点があって、エピソード的な短期の出来事、政治史や戦闘なんかは、20世紀後半以降等閑視されている。そこの齟齬は結構大きいし、本書でもその間を埋める部分が弱いと感じる。中世から近世を通じて、平板に「封建制」という概念でくくってしまうあたりに顕著なんだけど、社会構造はこの間に相当変化しているのに、それが議論に反映されていないとかなり厳しい。
 全体の流れは武士団の軍隊の在り方として大小の武士団がばらばらに戦うシステムから、兵種別の編成への転換といった感じ。後北条氏の軍団編成に関する文書から在地性の薄さを指摘。傭兵としての足軽の出現や戦国時代の軍勢が槍・弓・鉄砲といった兵種別編成が行われていたことの論証。さらに、精鋭重装歩兵部隊である「侍」と傭兵である「足軽」の二重構造。第七章で補給の問題、最後に織豊政権がなぜ強かったの議論。
 最後の織豊政権に関する議論がバシッと決まれば、もっと良かったのだが、ここが微妙。織豊政権と比べると、東国の戦国大名が必ずしも編成や鉄砲の装備といった点では後れをとっていたわけではないという指摘はなるほどと思う。しかし、織豊政権の強さを単純に淘汰圧に求める議論は単純すぎないだろうか。「兵農分離」を農業と軍隊が分離されているかといった観点から議論しているが、もう少し広く、武士の「在地性」といった観点から議論する必要があると思う。つまり、武士がその支配地域の人間関係や利害、生業にどの程度コミットしているかどうか。その観点からすると、初代の宗瑞が京都から流れて来て伊豆を制圧、さらに相模・武蔵と支配領域を広げていった後北条という戦国大名が、織豊政権と並んで特に在地性が薄いのではないだろうかと感じる。「最前線の軍事拠点(城郭)に守備隊を入れて保持し、戦域が前進すると新たな拠点に後方から選抜した守備隊を送り込む」(p.89)ことを繰り返した結果、北条氏の軍団は在地性が薄くなってしまったのではないだろうか。同様に、織田・豊臣家の家臣団も尾張から近畿北陸方面に急激に支配領域を広げる過程で、本拠地から引き離されて在地性が薄れてしまった。それに対して、武田や西国の毛利大友といった大名は、より在地性が強いというか、国衆の独立性が高いように感じる。武田家の崩壊も、配下の勢力の離反によって起きたわけだし。それに比べると後北条の支配は強靭に見える。そのあたりの地域社会との関係という部分にも注目するべきではなかろうか。関西地域にしても、北条氏支配地域にしても、武士の在地性が薄れるのと裏腹に、村の独立性・惣村の形成という自体が進んでいるようにも感じるし。


 以下、メモ:

 この「武士道」に、正義と潔さを尊ぶ誇り高いイメージを決定的に結びつけたのが、新渡戸稲造であった(少し前の五千円札の人だ)。新渡戸の武士道論は、当初は日本よりむしろ欧米において評価されたが、佐伯真一氏らが指摘しているように、新渡戸自身は若い頃から多くを欧米で過ごしていたために、日本の古典に関する教養がきわめて希薄であったし、彼の有名な『武士道』も欧米滞在中に執筆されていて、日本の古典をつぶさに参照することは不可能だった(『武士道という幻影』)。
 実際、新渡戸が『平家物語』に出てくる話として紹介しているエピソードなど、現在普通に知られている『平家物語』の諸本では確認できない。おそらく、幼少の頃に歌舞伎か講談か何かで見知って覚えていた、通俗的なエピソードがもとになっているのだろう。新渡戸のエキゾチックな武士道論は欧米で好評を博し、日本に逆輸入された。そして、四民平等を唱えて国民軍を創設しながら、一般庶民から徴発した兵たちに「侍」「もののふ」たることを要求するという矛盾に溺れた軍国主義者たちが、この奇妙な武士道論を、新渡戸の意図をこえて称揚していったのである。p.48

 よく考えると罪深い本だよなあ。政治利用されてしまったってのが悲劇なんだろうけど。実際の武士は、汚いことをしようと勝てば正義、面子がいちばん大事ってな人種だったわけだけど。

 そもそも、人間の集団が隊列を組むというのは、相当に意識的な行動である。軍隊が、等間隔の整然とした隊列を組むようになったのは、十七世紀のヨーロッパにおいてであるが、これはちゃんと理由がある。当時のヨーロッパで使われていた小銃はマスケット銃と呼ばれるもので、日本の火縄銃とは細部の構造が異なっているけれども、先込め式の単発銃という基本構造は同じである。先込め式の単発銃は、発射間隔が長いうえに、弾込めのためには銃身を立てなければならない、という弱点がある。したがって、近代における銃撃戦のように、物陰にパッと走り込んで伏せ撃ちするような動作はとることができない。p.100-1

 まあ、日本の火縄銃は西洋人から見ると、鳥撃ち銃だったらしいけど。散兵で撃つ代わりに命中率重視だった様子。あと、銃兵に関しては17世紀以降の教練が始まりと言えるだろうけど、古代から長槍の集団戦はあったわけで、それらがどのような隊列を組んでいたかは気になる。古代ギリシアファランクスとか、中世末以降のスイス傭兵はどの程度厳密な隊伍を組んでいたのかとか、訓練期間とか。

 おそらく宗瑞たちは、収穫物の略奪というエサを示すことによって、志願者をかき集めて傭兵部隊(足軽衆)を組織したのだ。そして、戦争に勝利すると討滅した相手の所領を、多米氏や・荒川氏といった傭兵隊長や、笠原氏・大道寺氏といった被官・縁者らに分配して兵を養わせる、ということを繰り返しながら軍隊を作り上げていったのではあるまいか。これは、のちに『所領役帳』を生みだすような軍事動員システムの基礎であると同時に、封建制的な軍隊形成システムとも原理的に矛盾しない。本来傭兵だった足軽は、こうして封建制的な軍隊の一角にうまくはめ込まれた。p.112

 このあたり、後北条と他の戦国大名の家臣団との比較が必要そうだと思った。最初からきわめて在地性の薄いというか、外来の軍隊だったというのは大きな特徴だと思う。そういう意味では、後北条を戦国時代の「典型」と見るのは危ういなあ。文書が良く残っているから、戦国大名の研究によく利用されるようだが。

 また、『甲陽軍鑑』によれば、当主直属の傭兵部隊であった足軽衆を指揮する「足軽大将」は、他国の出身者や国内でもごく身分の低い土豪層などの出身者、有力家臣の傍系の者たちなどで占められている。これも、よそ者や軽輩の者を登用する巧みなシステムと言えよう。p.244

 まあ、君主が独自の政治的基盤を持たないものを登用するというのは、洋の東西問わず良くあること。そういう人間は、ちゃんと報酬を与えておけば忠実に仕えてくれる。自己の地盤を持つ「有力者」はその基盤を維持するために行動するから、必ずしも忠実でない。その牽制として、下層階級や外国人を登用する。逆に言えば、国内における有力者を御しきれていないという弱さの反映とも見ることができる。

 前項でまとめたように、戦国時代の日本には明らかにRMAが起きていた。信長・秀吉の覇業も、二重構造の軍隊によって大量の兵士を動員するとともに、侍のもつ野蛮な属性を組織化して極大まで発揮する、というようにRMAの成果の上に達成されたものだ。早い話、同じようなRMAを経た軍隊どうしが戦えば、より規模が大きく、より野蛮で、指揮官の資質にすぐれた方が勝つ。織田・豊臣軍が全国を統一できたのはそのためであって、決して信長や秀吉がRMAにおいて他より先んじていたためではない。p.252

 うーん。

 戦国時代の日本が百年以上にわたって内戦を継続し、軍事革命を生じせしめながらも、社会構造の根本的な変革に至らなかった一つの原因を、筆者はここに見る。良い意味でも悪い意味でもしたたかな侍たちによって、封建制的社会という大枠を崩すことなく遂行された軍事革命は、絶対王政への道筋も市民社会の成熟をも準備せずに、封建制のみを再編成して終わったのだ。けれども、この軍事革命封建社会を再編するに留まった原因はそれだけではあるまい。p.254

 いや、江戸時代を「封建制」というなら、フランスの絶対王政なんかも同様に封建制でしかないのだが。フランスの「絶対王政」が絶対とは名ばかりの様々な社会集団との取引によって形成されていた「社団国家」であった。逆に、江戸幕府は相当に「絶対王政」的な色彩を持った政体であったとも見ることができる。18世紀半ばあたりまでの時点では、江戸幕府という政体は、相当「先進的」であったとみることができるのだが。