「野田寛先生之墓」

 立派な墓誌がついているお墓。熊本高校の前身、旧制県立熊本中学校の初代校長のお墓らしい。基本的に漢字は新字体に、かなは平仮名に変えている。しかしまあ、1971年にここまで漢文調というか、古い字体を使わなくてもよさそうなものなのに。写すのに手間がかかった。墓地を移転したそうで、この文章は死去時の文章をモデルにしているようだ。



復堂野田寛先生墓誌
先生姓は野田氏幼名は政雄後寛と改む復堂は別号
なり慶応二年四月十五日建部七軒町に生る考諱は
淳朴医を業とす妣は宇野氏なり先生資稟穎異夙に
庭訓を受け書を読み文を能くす稍長して濟濟黌に
学ひ佐佐克堂先生の勧奨する所となる後笈を負い
東京大学に学び哲学を攻む業成りて後郷に帰り
職を濟濟黌に奉す実に明治二十六年九月なり三十
三年熊本中学校の創立に方り擢てられて校長とな
る爾来二十五年の久しき恪勤励精綜理緻密専ら力
を子弟の薫育に致し校風夙に成り其名天下に著し
先生白皙にして髪なし人と為り温籍にして寡黙生
徒を訓ふるに方あり言含蓄に富む是を以て聴者悦
服し道味の腴終身受用して尽きざるものあり先生
学に篤く校務紛劇の間手尚ほ巻を釈かす既にして
大正十四年三月思ふ所あり花甲を待たす病を以て
職を去る何人か愛惜せさらむや受業門生胥謀り知
友名士の賛襄を獲明年其胸像を校庭に建てて聊か
師恩を謝す熊本県熊本県教育会及ひ熊本日日新聞
社等相踵いて顕彰する所あり先生隠棲三十年終始
清貧に甘んじて復た世と相関せすと雖も憂国の念
は少しも衰へす益研鑽を重ね涵養に努めて高懷間
雅恰も明鏡止水の如く郷人の景仰弥厚し戦後世態
迫急するや受業有志者相議りて寿康会を組織す先
生甚た喜ひて常に安輯を得昭和二十九年五月十六
日従容として神水の私邸蓬蒿園に卒す享年八十九
江原会遺命に遵ひ習俗に循ふことなく恭しく熊本
高等学校に於て盛儀を営み京塚の先塋の次に葬り
其明年墓表を立つ去年開校七十年を記念しては戦
時献納したる胸像を新鋳再建す記あり而して今又
此○宅別座の挙あり嗚呼淵なる哉先師懿しい哉其
徳誰か矜式せさらむや然り而して小子不文已往の
三篇を勘校して之か記を為る昭和四十六年夏七月
東京中野に於て受業高森良人敬みて撰す