村井章介編『「人のつながり」の中世』

「人のつながり」の中世 (史学会シンポジウム叢書)

「人のつながり」の中世 (史学会シンポジウム叢書)

 中世の人間集団の「結合原理」から、中世社会の特質を追ったシンポジウムをもとにした論文集。個々の論文はそれなりに面白いと思うけど、全体として日本中世における「人のつながり」が析出できているかというとどうだろうか。史料の残存状況から非常に厳しいのは分かるが。どういう人間とどういうつながりがあったかを具体例から明らかにするなんて、それこそ日記か書状を丁寧に分析するしかないだろうし、それとても史料の網羅性とかプライベートなどの「書かれなかったこと」を考えると、どこまで意味があるのかということになるだろうし。とりあえず、「一揆」形式の結合が中世後半に於いて重要な意味を持ったというのは分かる。一方で、その「一揆」という結合の内実をブラックボックスにしてしまうのも問題だなというのは、最後の岸本論文から感じるし。
 とりあえず、後半の集団間の人間関係を扱った諸論文がおもしろかった。特に「院政期の挙状と権門裁判」の様々な人脈を利用して紛争を有利に解決しようとする動きが、逆に紛争を悪化させる。結果として、在地への紛争への介入を制限する「法」が生成されていく状況。あとは、壱岐の中世の情報が日本よりもよっぽど朝鮮半島の史料に残されている状況とか。
 個別論文への言及は体調が悪いのでパス。


 以下、メモ:

 中でも重視されたのは、国人の「家」において軍事力の中核を担う上級従者たる被官層への対応である。菊池浩幸氏は益田氏を事例に、被官人の国人家産からの自立化を十四世紀末からの現象とするが、ちょうど同時期に、益田氏においては、「一族・若党」が家督継承者を「主人」として推戴する体制が確立する。被官の自立化を抑止することを主眼とした国人の「家」再編運動=内部統制の一つの帰結と表現できようが、被官層の取り込みは新たな〈被官問題〉をも惹起した。
 被官が引き起こすトラブルとは、具体的にどのようなものか。研究史においては専ら「逃亡」問題が注目されてきたが、当時は被官など従者の「喧嘩」も国人層の大きな課題であった。従者の喧嘩が問題視される理由の一つは、彼らの暴力的なメンタリティーにある。左に史料を掲げる。
  (中略)
 これは永享十一(一四三九)年に伊予守護の河野教通が伊予の国人を引き連れて大和に出陣する時の史料であるが、伊予の国人の被官人が他国から来た国人の被官人と戦場で喧嘩をすることがないよう、幕府が河野教通に対して注意を与えている。こうした無軌道な武家奉公人を如何に統制するかが国人層にとって大きな課題だったのである。
 もう一つの理由は、甲と乙という個人の喧嘩が、甲が属する集団と乙が属する集団との喧嘩に即座に発展するという、中世独特の集団主義である。特に上層従者として国人の「家」で確固とした地位を与えられた被官が引き起こす喧嘩は、主人である国人にとって看過できる問題ではなかった。被官の個人的な喧嘩が領主間紛争に転化することを、彼らは何よりも恐れたのである。p.41

 なんかこういうのを見ると、不良とかヤンキーとかと言われる種族とたいして変わらんような気が…

 ところで毛利氏分国内の人返規定について検討した菊池浩幸氏は、戦国期の毛利氏が発令した人返法は武家奉公人(被官・中間・下人)を対象としたものであり、百姓の人返を規定した法令は豊臣政権服属後に初めて現れることを明らかにしている。ここから国衆連合の盟主として出発した毛利氏権力が、その初発の条件に長く規制されたことを窺うことができよう。p.58-9

 まあ、実際国人連合としての限界は関ヶ原まで克服できなかったようだしな。

 戦国期畿内の地域社会の情勢から立論された「侍」身分論において、村落を主導する侍層が主体的・戦略的に主人を選び取っている状況が明らかにされた。右の事実を踏まえた近年の研究では、有力者を主人と仰ぎ、その庇護下に入ろうとする行為が中世社会に普遍的な現象であることが指摘されている。何らかの集団に属さぬ限り自らの生命・財産・地位を守ることが難しい中世社会において、主従契約も一揆契約も共に重要な〈保険〉である。久留島典子氏が指摘するように「タテ系列の人的関係とヨコ系列のそれとは、けっして矛盾しあうものではない」のである。p.60


 縁を頼って権門の判断が外側から在地に持ち込まれることによって、在地の紛争が解決することは稀であった。口入それ自体が一般的に強制力を伴わないものであったという事情に加えて、代替わりの度ごとに、新たな縁によって新たな判断が導入される可能性を排除できなかったからである。権門の口入によって在地の紛争がむしろ激化するという歴史的経験の中から、権門の口入を自制・抑制する法が権門と在地の結節点において生じたのではないだろうか。高野山領官省符荘の場合、具体的な訴訟の中から法生成の過程がうかがえたが、十二世紀後半から権門の口入を自制・抑制する本所法が成文法として相次いで現れるようになる。それは大別して二つの動きとして現れる。p.158

 こういう「紛争解決」から見る秩序の生成って興味深い。

 中世商人の職縁的組織としては座が周知のものだが、戦前来の中世商業史研究がもっぱら座を中心に進められきたこともあって、座のもつ意義についてはこれまでやや過大評価されてきたところがあるように思われる。とくに外国史研究者のなかには、その手の概説書の影響か、現在も日本の座を西欧のギルドに近いものと理解している向きもあるようだが、実際には、日本の座のばあい、西欧のギルドのように都市行政を握るということがなかったことに加え、座はどちらかといえば中小の商人や手工業者に多くみられ、土倉・酒屋、遠隔地商人、貿易商人のような大商人にはあまりみられない傾向がある。大商人はかならずしも同業者組織の結成を志向していなかったということであり、その意味では座を中世商人の主要な組織形態とみなすこと自体にも問題がある。
 では大商人たちの組織形態はどのようなものであったかといえば、彼らの多くは同業者どうしの結束よりもむしろ一族どうしの結束を選んだ。職縁よりも血縁が好まれた、あるいは血縁がそのまま職縁であるような関係といったほうが適切かもしれない。彼らが一族どうしの結束を志向した主な目的は財産の流出防止と資金調達の円滑化にあったとみられるが、ここでは後者の側面を土倉についてもう少し詳しくみておこう。p.173-4

 むしろ西洋のギルドの見方が概説書的に見えるが… 座の位置付けは興味深い。