ゲオルク・シュタットミュラー『ハプスブルク帝国史:中世から1918年まで』

ハプスブルク帝国史―中世から1918年まで (人間科学叢書 15)

ハプスブルク帝国史―中世から1918年まで (人間科学叢書 15)

 結構かかったな。ラノベに戦力を集中していたので、結局10日ほどかかってしまった。
 10世紀ごろのハプスブルク家の出現から、第一次世界大戦に敗北しオーストリアハンガリーが解体されるまでを描く通史。近代に入ってからのオーストリアを扱った書籍は結構多いけど、中世や近世のカール5世時代も含めて描く通史って意外とないから、その点では貴重。ただ、1000年にわたる長期の歴史をそれほど厚くない本に詰め込んでいるから、細かい具体事例などはあまり描かれない。あと、ハプスブルク家に対して甘いというか、歴史観が古色蒼然としている感じが。1960年代に出たにしても、それはどうなんだと思うような記述もある。あと、原著にあった文献目録を省略しているのがダメダメ。
 ドイツの南西部の家門であるハプスブルク家が、ホーエンシュタウフェン家の配下として領土を拡大、その後、オーストリアの支配者に納まる。さらには婚姻政策で低地地方やスペインの王位を得てカール5世とフェリペ2世の黄金時代、スペイン系とオーストリア系への分裂。30年戦争を含む、16世紀から17世紀のフランスとの長期にわたる戦争の敗北。対トルコ戦争。近代のナショナリズムのなかでのハプスブルク帝国。ドイツ・イタリアの統一の動きのなかでオーストリアが排除され、ドナウ流域の多民族帝国になっていく。さらには東欧の諸民族でのナショナリズムによる解体の動き。もう、19世紀以降はずっと解体の動きとしか言いようがない感じだな。
 本書を読んでいて、ドイツ西部を中心とする中小領邦がどんなだったのか興味が出てきた。


 以下、メモ:

 フェリペ二世が公式に即位したのは二十九歳の年齢であるが、事実はすでに十七歳のときから父王の代理としてスペインの統治を行っていたのである。かれは、実際には決してシラーらの叙述であやまり評価されてきたようなおそろしい専制君主ではなかった。むしろルードヴィヒ・ファンドゥルやチャールズ・ペトリの伝記の方が、かれが支配者、人間としてすぐれた人物であったということをよくえがいている。ポルトガルのマリア、イギリスのメアリ、フランスのエリザベス、オーストリアのアンナという四人の異る妻からの愛がかれに寄せられたということは、かれのすぐれた人間性をぬきにしてはおよそ理解できぬことである。p.35

 うーん、どうなんだろう。まあ、モザイクのようなさまざまな領邦を束ねて一つの政治勢力にまとめ上げていたのだから、器量はあったんだろうけど。なんか、ひいきのひきたおしのような感じが。あと、ちゃんと注を付けといて欲しかった。

もちろん、アステカやマヤなどの古いインディオの文化はスペインの征服者によって破壊された。が、それにもかかわらず、原住民であるインディオの野蛮で残酷な行為(人身御供など)が抑止されたりしたことで、スペインの支配はなお大いなる進歩を意味した。それゆえに、それは、屈服させられた諸民族の大部分からは解放として歓迎されたのである。
 正規のスペイン的な行政機構がつくられて以来、アメリカ大陸の諸地域では多くのあらたなことが開始された。大きな都市が建設され、鉱山開発による土地利用がなされ、原住民を守るための法律が公布され、実際に施行された。キリスト教とヨーロッパ文化の普及も、同様にまたこの地方の繁栄に影響を及ぼした。このようにして、スペインの植民帝国では、英語的な北アメリカの場合とは異なり、インディオ系原住民が根絶されることなく、かれらがスペイン系の移住民たちと混血して一つの新しい「メスティーソ」住民を形成するという事態が生じたのである。p.37-8

 いや、1960年代の著作でここまで帝国主義丸だしな発言が行われるとはなあ。完全に事実が転倒している。ここを読んで、本書の信頼性に随分と疑問符が付いてしまうのだが。

 古来のプロイセン貴族が独自のルーツから出て数世代以上にもわたる不変性を示したのに反し、ハプスブルク帝国の貴族的上層部はその大部分が異民族系で、連綿とした血統的由来をもたず、その気持や態度において国際的であった。ニコラウス・フォン・プレラドヴィッチが提示しているように、プロイセン国家は固有の貴族を、オーストリア国家は「貸し出された」貴族を有したのである。p.98

 へえ。まあ、ハプスブルク家の歴史を考えると各地からリクルートしてきたのは不思議じゃないだろうな。あと、こういう広範囲にわたる帝国では、なまじな土着勢力より、そういう外来者の方が使いやすかったんだろうな。

それとともに本書には、ドイツ史研究におけるプロイセン偏重への批判がみられる。近代ドイツ史を通じてオーストリア人こそ指導的民族であったのに、一八六六年の普墺戦争におけるプロイセン勝利のあと、過去五百年間のドイツの歴史が小ドイツ主義的感覚で書かれるようになったのは片手落ちである、という不満がうかがわれるのは、興味深い。p.228

 確かにそれは片手落ちだよなあ。まあ、それをいうなら国民国家を単位とした歴史観そのものがいろいろなものを振り落としているわけだが。