伊藤幹治『贈答の日本文化』

贈答の日本文化 (筑摩選書)

贈答の日本文化 (筑摩選書)

 うーん、全体としてちぐはぐというか、流れが見えない感じが。日本社会の贈答の事例が豊富で楽しいのだが、二章で行った理論的な検討が、具体的事例の検証に生きていない気がする。バレンタインと互酬性などの議論はおもしろいのだが。
 三章の祝儀帳・不祝儀帳を利用した研究などはおもしろそう。


 以下、メモ:

 こうした戦後の生活改善運動は、所期の目的を十分に達成することができなかったようである。戦中の一九三五(昭和一〇)年四月から三カ年にわたって、柳田国男傘下の民俗学者によって全国の山村調査が実施され、その成果が柳田国男編『山村生活の研究』(一九三七年)として刊行されているが、その五〇年後に追跡調査がおこなわれ、その結果が成城大学民俗学研究所編『昭和期山村の民俗変化』(一九九〇年)として出版されている。そのなかで民俗学者の田中宣一は、香典返しの撤廃、香典の定額一律化などに一定の効果を挙げた地域もあったが、逆に冠婚葬祭の簡素化が一時的な減少にすぎなかったり、あるいはまったく実施されなかったりしたところが多かったと報告している。p.30

 近代に入ってからの贈答の改革運動をいくつか挙げているが、こういうのってなかなか変わらないんだろうな。まあ、近世の倹約令と似たようなもんか。

 西アフリカ・カメルーン共和国北部のレイ・ブーバーとよばれるイスラーム王国では、嶋田義仁によると財貨とことばのあいだに互換性があるという。
 モノをもらうとお礼のことばを返す。お礼のことばを返せばモノをもらってもよい。こうした財貨とことばのやりとりを、嶋田は「異次元交換」とよんでいる。なお、財貨は歌や踊りとやりとりされるほか、友情ともやりとりされる。そして、嶋田は財貨とことばの関係が社会的地位の上下によって変わることに注目し、財貨とことばのやりとりが支配と被支配という権力関係と深くかかわっていると述べている。
 嶋田の異次元交換という概念は社会交換にあたるが、北部ラガ社会のタベアナについての吉岡の解釈とイスラーム王国の財貨の提供をめぐる嶋田の解釈のちがいは、贈りものを贈与論の文脈でとらえるか、社会交換論の文脈でとらえるかによるとみてよかろう。贈りもの(モノ・財貨)が、贈与論の文脈では「贈与」になるが、社会交換論の文脈では「交換」ということになるからである。p.71-2

 そこで、ボールディングは互恵性が表面的には交換のようにみえるにしても、交換のもたない統合的側面をもっている、と注意をうながしている。そして彼は、クリスマスの商業化がひろく嘆かれているという事実は、純粋で単純な交換にはなしえないような共同体意識やより複雑な個人関係を形成する機能が互恵性にあることを示している、交換が正当化されるためには、当事者間にある程度の統合的な関係を必要とし、それこそが交換がほとんどつねに互恵性から発展した理由であった、歴史的には互恵性の形式化とみなしうる理由である、と述べている。p.81-2

 興味深いのは、レヴィ=ストロースが互酬性の概念を説明する際に、南フランスの大衆レストランで、隣同士のふたりの見知らぬ客が、それぞれ小瓶に入ったワインをグラスに注ぎあう情景を克明に叙述し、交換自体のなかに「交換される以上のもの」が存在すると述べていることである。交換される以上のものとは、ワインをグラスに注ぎあう見知らぬ客同士の「対立を統合させうる」互酬性のことであろうか。そのあとで、レヴィ=ストロースはこのように述べている。
 ワイン交換によって解決されるのは、おたがいに感じる不安を解消させてしまう好意の確認であるが、ワイン交換はそれ以上の働きをする。自分の分を確保する権利をもっていた相手に、その権利を放棄させてしまう。提供されたワインはお返しを要求する。親愛は親愛を求める。たがいに無関心である関係は、客の一方がそうした状態を脱しようと決意した瞬間から、もはや決して前のような関係には戻りえない。いまはもう、親愛か敵意のどちらかでしかありえない。人は礼を失しないかぎり、自分のグラスにワインを注がれるのを拒むことはできない。そのうえ、ワインの提供を受けることは、ほかのものの提供、つまり会話の提供をも認めることになる。
 このようにして、つぎつぎに起こるちょっとした社会的結びつきが、交互に繰り返される一連の往復的な動作によって樹立されると、それによって人は提供することにおいて権利を獲得し、受けることにおいて義務を負う。そして、つねにその両面でこれまでに与えられた以上のものを提供し、あるいは受けとられた以上のものを受ける。p.82-3

 メモ。「互酬性」の人間関係形成について。

 サーリンズによると、結婚で結ばれた婿方と嫁方の親族間の交換は、一定の期間にわたりおそらく永久に均衡に達するすべがないという。そして、彼はこの不平等こそひとつの財産である、対称的で無条件に平等な交換は債務を帳消しにする結果、契約解消の道がひらかれるので、姻族の側からすればかえって不都合になると述べ、いずれの側にも「負い目」がないと、両者をつなぐ紐帯はそれだけ弱まり、また勘定が清算されないままだと負い目のおかげで関係が維持されるというのである。p.139-140

 なるほどと思うけど、歴史的にみると離婚ってのは普通にあることでもあるしなあ。そのあたりの矛盾が気になる。

 ふたつの調査は、いずれも「苦しいときの神だのみ」をする人びとが六〇パーセントほど占めると伝えているが、近世以来、現生利益のなかでも病気平癒がもっとも重視されている。戦後まもなく文部省が実施した全国宗世論調査でも、宗教社会学者の小口偉一が編集した『宗教と信仰の心理学』(河出書房、一九五六年)によると、現世利益のなかで病気という要因が圧倒的に高い比率を占めている。そして、現世利益を入信動機にしたものが一三・四パーセントを占め、現世利益のなかでも病気平癒をあげたものが全体の九四・〇パーセントであったと指摘されている。p.157

 まあ、病気になると心も弱くなるからな。何かにすがりたくなる。そして、現在でも病気平癒をネタにした新興宗教だのニセ科学ははびこっていると。


文献メモ:
嶋田義仁『異次元交換の政治人類学:人類学的思考とはなにか』勁草書房、1993
K・E・ボールディング『愛と恐怖の経済:贈与の経済学序説』佑学舎、1974
有賀喜左衛門「不幸音信帳から見た村の生活:信州上伊那郡朝日村を中心として」『有賀喜左衛門著作集5:村の生活組織』未来社、1986、pp.199-252
石森修三「死と贈答:見舞受納帳による社会関係の分析」伊藤幹治・栗田靖之編著『日本人の贈答』ミネルヴァ書房1984、pp.269-304