「広崎神楽社之記」碑

 広崎公民館から南に下ったところにある小社。正面の石碑が目立つ。






石碑正面

  広崎神楽社之記
 この社の祭神は国造り・五穀豊穣の神であ
伊邪那岐伊邪那美の二神とされ、肥後国
誌には加久羅社 国郡一統志には賀倉大明神
とも記される「カクラ」とは古語の神坐(カ
ミクラ)の訛りで、通常は人に見えぬ神霊が
時に応じて神々しい姿を現し給う場所の事で
もし石の上に現れ給えばその石を影向石(ヨ
ウゴウセキ)と言う。その時多くは童子の姿
で現れ、時には敏捷な鷹に変身して奇瑞を現
わし神意を告げた。古人は童子を神として祀
り、また鷹を神の使いと信じ堂宇を建て「早
鷹神社(通称ヒャアタカサン)」として祀っ
た。一般に創祀理由が不明とされ影向石信仰
と早鷹伝説を伴う社の創建時期はかなり古い
とされる。かって社は村内の小字の北原に早
鷹天神と共に祀られた。北原には「カクラの
上」の微小地名がありここが創祀時の場所と
思われる。北原一帯は高速道建設に伴う事前
発掘で縄文から古墳期までの複合遺跡が発見
され、早くから開発が進んだ場所であり、古
代人は自然神の神体である大石を開拓神とし
て祀り社の神威高揚に伴い鎌倉期以降、神坐
の原義通りの影向石信仰に早鷹伝説が付加さ
れて地域一帯の鎮守として村民に尊崇され祀
られて来たのであろう。南方の木山川(現秋
津川)沿岸の干陸化に伴い村落が次第に南に
移るに従い早鷹天神はそのまま現地に残し神
楽社は村の中心である現在地に大石と共に移
されたと思われる。広崎の村名は慶長国絵図
に出るので遷座の時期はその頃と考えられる
境内にはその大石が影向石として鎮座する。
  平成二十一年九月吉日
    撰并書  朝峯 松野国
        熊本歴史学研究会会長



石碑裏面

  広崎神楽社氏子名
石井川組 居屋敷組 奥組 新屋敷組 東組
(以下略)


昭和十七年三月改築
現在の社殿平成十六年三月再改築
平成二十一年九月吉日建立


広崎地域文化財之記
(省略)


優石ストーン工業(株)
設計・施工