メアリー・ダグラス、バロン・イシャウッド『儀礼としての消費:財と消費の経済人類学』

儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)

儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)

 うーむ、読むのに時間がかかった。『贈答の日本文化』の次に読み始めたから12日か。まあ、ガチな理論書だしそんなものかもともいえるが。ついでに言えば、内容を理解したとはとってもいえない、通読しただけって感じ。
 経済学の消費理論に、文化人類学の分野から貢献しようとした作品。以前から名前だけは知っている名著だが、今回講談社学術文庫に入ったので買ってみた。1978年に発表されたものだが、それ以後、本書の成果がどのように取り入れられたのだろうか。
 内容としては、「財の消費」という行為が、文化を可視的示すという情報行為であること。消費者は、基本的に情報を制御するために、互いに競っているという見通しを示す。その上で、消費という儀礼行為によって、人はさまざまに影響を与えあうこと。一番上の階層の人々は概念を操作することで、大きな経済的利益を得ていると指摘する。奢侈から日常の消費行為まで、まとまってみることができるのがメリットといえようか。財は高頻度に使われる評価の低い財から、頻度の低い高評価の財と何段階かに分けてみることができ、それらの消費の状況から経済階層が析出しているのも興味深い。
 本書の議論は戦後のイギリス社会を説明することを中心に展開されているが、これを現在の日本社会に敷衍できるのだろうか。携帯、SNSなどが人間関係を築くためのツールであることは確かであろうけど。逆に、アンシャン・レジームの奢侈なんかに適用するのは、容易そうではある。


 以下、メモ:

 まず、消費の観念そのものを社会的過程の中に埋め戻すべきであり、それを活動の結果ないし目的として見ているだけではいけない。消費は、労働の動因に根拠を与えるのと同じ社会システムの、分かち難い一分肢とみなされるべきであり、それ自体、他の人々と関係を結び、また、そのための媒介となる物質的素材を用意するという社会的必要の一部なのである。媒介となる物質的素材というのは、食物や飲物であり、客が居心地を楽しむ住居であり、喜びを分かち合うしるしの花や衣装、あるいは悲しみを分かち合うための喪服である。財、労働、消費は社会の全体図式から人工的に抽象されてきたのだが、そうやって切りとってきたやり方のために、生活のこうした側面が理解しにくくなっているのである。p.18

 全体としての説明はここに尽きるな。