引揚者団体の解散

 11月ごろの新聞記事を整理中なのだが、戦前に南洋に移住して、戦後引き揚げてきた人たちの団体の解散の記事が二つ重なったのが印象的だったので。第二次世界大戦も本当に遠くなったよなあ。当時20歳だった人も、もう87歳なわけだしなあ。
 あと、こういう団体がつくっていた会報や名簿、関係者のもつ資料類を今のうちに収集しておかないと散逸してしまうんじゃないかなあ。県立図書館のOPACを検索してみた限りでは、そういうのの収蔵されていないようだし。私も祖父が属していた団体の会報なんかをもっているけど、自分でもっていてもあんまり意味がないしなあ。

「戦後フィリピンから引き揚げ 県人会が解散:ダバオの絆「忘れない」:同じ時を生き、死線をさまよった仲間思いで尽きず」『熊日新聞』2012/11/26


 戦後にフィリピン・ダバオ市から引き揚げてきた人らでつくる県ダバオ会(石本信孝会長)が24日夜、熊本市で最後の親睦会を開き、解散した。高齢化で活動が困難になったため。22人が出席し、尽きぬ思い出を語り合って名残を惜しんだ。


 石元会長(86)によると、同会は、ダバオ市に移り住み麻栽培などに従事していた県出身者らが引き揚げ後に結成。年1回の親睦会や墓参、現地の小学校への寄付などの活動を続けてきた。フィリピン残留孤児や残留日系人が、戸籍回復や親族との対面を求めて来熊した際は、受け入れにも尽力した。
 かつては100人を超えた会員も、今はほとんど2世世代。親睦会の参加者も近年は20人前後に減っていた。
 熊本市東区の火の国ハイツであった親睦会には、群馬県桐生市山口県下関市などからも会員が駆けつけた。一人一人がマイクを握り、笑顔で、または涙ぐみながら思い出や近況を語った。
 1945年11月に引き揚げた森田真澄さん(89)=北九州市=は、姉の田原エミ子さん(85)=玉名市=と参加。「地上戦が始まると家族でジャングルに逃げ、負傷した若い日本兵が助けを求める姿も見た。でも幼い頃は楽しいこともたくさんあった。果物がおいしかった」と振り返る。
 事務局長を30年近く務める永田ミユキさん(77)=大津町=は「親戚以上の間柄。皆で会うのが楽しみだった。苦しかったこと、楽しかったこと…。毎年話題は同じなのに飽きなかった」と話す。
 同じ時、同じ場所で同じ体験を共有し、共に死線をさまよった仲間。「これからも心はつながっている」。石本会長はそう呼び掛けた。(楠本佳奈子)


「第2次世界大戦後、インドネシアから帰国「ジャガタラ友の会」最後の慰霊祭:宇城市三角町「友愛之碑」:会員高齢化などで」『熊日新聞』2012/11/7


 第2次世界大戦後、インドネシアから引き揚げた人たちでつくる「ジャガタラ友の会」(白井芳子会長、約50人)が6日、宇城市三角町三角浦の石碑「ジャガラタ友愛之碑」前で最後の慰霊祭を開いた。
 ジャガタラインドネシアの首都・ジャカルタの古称。同会は引き揚げ後も親睦を深めようと1960年に発足した。石碑は66年、三角町太田尾の会員の所有地に建立。89年に現在地へ移設した。
 慰霊祭は3年ごとに開催していたが、遠方の会員が多く、高齢化も進んだため今回限りとなった。東京や大阪などの会員10人に、石碑の清掃をしている東港1区老人会のメンバーらを加えた計約20人が出席。2009年から3年間で亡くなった会員13人の名簿を石碑に納め冥福を祈った。
 白井会長(73)=東京都大田区=は「慰霊祭が最後になるのは本当につらいが、会の活動は今後も続けていく」と話している。(吉田紳一)



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