「井上毅先生誕生地碑」

 こちらは必由館高校の敷地内に建っている。さすがに平日に写真を撮りに行く勇気はないので、土日にひっそりと。
 どうも、戦意高揚というか、愛国教育のために、県民デパート横の「元田永孚先生誕生地碑」とセットで建てられたようだ。昭和14年という時期が、また微妙だな。手前には、米田家の家臣が生活に使っていて、井上毅の産湯にも使われたとされる「産湯の井戸」を復元したものがある。





台座正面

先生旧姓は飯田氏幼名は多
久馬後毅と改む梧陰は其の
号なり世世米田家に使ふ天
保十四年十二月十八日熊本竹
部に生し長じて井上氏を昌
す始め時習館に学びて特に
居寮生に擢でられ又木下犀
潭に従ひて業を受く博学文
を能くし識度宏遠偉材の名
夙に闔藩に囂し後仏学を修
め官命を以て仏国に遊学し
帰りて朝に仕へ大久保岩倉
伊藤諸公の知遇を蒙る当時
政府の施設する所書策多く
は先生の手に成る而して其
の先に帝国憲法其の他法令
の制定に心力を傾注し晩年
文部大臣と為りて学制を改
革し実業教育を振興したる
豊功偉績は世人の知る所な
り二十八年三月十五日病み
て没す年五十三本会碑を建
て先生の事略を記し観る者
をして感奮する所あらしむ
 昭和十四年二月
     熊本県教育会



説明板

 井上毅誕生の地
 天保14年(1843)12月、この地に生まれ、
幼い頃から偉才と称えられた井上毅は米田家の
家塾「必由堂」、さらに藩校「時習館」に学び
後に藩命により横浜に進学しました。
 明治3年(1870)司法省に入った後は、同5
年にフランス、ドイツに留学し、主として法制
関係を学びました。
 帰国後は、大久保利通の清国談判に随行し、
以来岩倉具視伊藤博文の深い信頼を受けて、
後に帝国憲法教育勅語の起草に当たるなど
近代日本の基礎をつくりました。
 法制局長官を経て、明治23年(1890)枢密
顧問官、同26年に文部大臣に就任し、実学教育・
女子教育の奨励、体育の向上など教育の振興に
力を尽くしました。
明治28年(1895)3月17日 没 享年53歳
          熊本市(観光政策課)



「産湯の井戸(産井)の由来」解説板

 産湯の井戸(産井)の由来
 校地一角に米田家旧邸があるように、この地には江戸時代
熊本藩家老米田家の下屋敷がおかれていた。井戸の付近には
家臣団の長屋があり、生活用水として使用されていた。
 井上毅(一八四三−九五)は、家臣飯田権五兵衛の三男として
ここで生まれた。かれは、同輩井上家の養子となり、後に大日本
帝国憲法の起草に関わり文部大臣になった。よって、いつしか
井戸は井上誕生にまつわる「産湯の井戸」とよばれるようになり、
校歌でも「産井」と謳われるにいたった。学校誌「うぶゐ」
(一九六六(昭和四一)年創刊)の名称もこれにちなむ。
 このたび本校創立百周年を記念し復元することにした。


   平成二十三年二月
    熊本市立必由館高等学校百周年記念事業実行委員会