「田迎会所之跡」碑

 田迎手永会所の跡地。手永とは、江戸時代の行政組織で数か村を束ねたもの。ここがかつての地域行政の拠点だったと。
 すぐ後ろが個人の家な上に、御覧のように一面花が植えられているので、裏側を見るのは断念。部外者がずかずか入り込むのもアレだしなあ。冬場に行くしかないのか…




「手永会所跡由来の碑」

  手永会所跡由来の碑
細川氏の肥後入国後郡の下部行政組織として「手永」
が設けられ、その事務をとる役所を会所と言った。
ここは寛永十二年(一六三五)の田井島手永延宝六年
(一六七八)の田迎手永以来、手永を治める総庄屋以下の
勤務した役所であったが、明治三年手永制度は廃止された。
会所の東北隅、いわゆる鬼門に当る処には寛政六年
(一七九四)総庄屋芥川守拙の建てた観音板碑がある。
また「会所跡の碑」は、昭和十五年に建てられ、
時の県知事雪沢千代治氏の筆である。
   平成二年九月一日 田迎一町内自治