平野五岳詩碑

 高橋公園内、谷干城銅像の左脇にあるもの。裏の碑文によれば、西南の役の120周年に際して、平野五岳を顕彰するために建てられたものなのだそうだ。日田市の人々が建てたもの。
 赤い石から碑文を読みとるのに苦労したのと、漢詩っぽい文章が理解し難かったので、なかなか取り上げられなかった。正直、こうやって写しても、理解できていないし。田単とか、魯般とか、中国の古典に出ている人が普通に出てきても分からねえよ。まあ、最近はネットで検索すれば、ごく基本的な情報は手に入るけど。



石碑正面

四面 皆賊 簇ること雲に似たり
城は雲中に在り級々として分かる
満目今日真に火の国
市廛邨落一時に焚く
城兵は魚の釜中に在るが如きも
城将の心は泰山の安きに居る
破裂して丸は飛び 烈焔迸しり
雲梯 梁が魯般に学ぶを笑う
忽ち万雷をして地自り発せしめ
火牛 何ぞ必ずしも田単にならわん
六十日間 虚日無く
攻守 一日 幾艱難
軍糧山の如きも山も亦た尽く
頼いに我が兵の力能く弾す有り
能く力を弾すと雖も色は菜ならんと欲し
千竈 烟は絶えて兵気寒し
知る是れ都督の援軍到るを
大喊 声は一山を隔てて聞こゆ
城兵驀地し出でて賊を撃つ
賊軍崩れ去ること倒瀾に似たり
嗚呼 日本国中 已に城無し
唯だ此の城のみ有りて賊氛を遮る
城を守る者は誰ぞ谷少将
城を築く者は是れ 当年の鬼将軍
 丁丑の夏日熊本城下作 古竹老衲岳



石碑裏面

  平野五岳(一八〇九-一八九三)略歴
 五岳上人は文化六年大分県日田市に生ま
れ五条山専念寺第六代住職となった幼くし
て広瀬淡窓の咸宜園に学び詩・書・画を
能くし三絶僧と称せられた
 明治以降は松方正義大久保利通木戸孝允
等とも交わりが有りその画は明治天皇にも
献上された
 この詩は明治十年丁丑の六月西南の役
戦跡慰問の途上にこの地を訪れて詠じたも
ので上人の筆跡がそのまま刻まれている
 奇しくも今年は西南の役から満百二十年の
丁丑の年に当たるこれを記念して五岳上人
の偉徳を顕彰しこの碑を建立した
  平成九年丁丑六月吉日
 大分県日田市五岳顕彰会
   会長 日田市長 大石昭忠
   仝  副会長  佐藤誠一郎
   仝       川津信雄 撰書
  五条山専念寺
    第十一代住職 平野法好


        施工
         大分県日田郡天瀬町
          梶原石材 梶原義政